艦これ 那智 聖地巡礼 [聖地巡礼]

熊野古道を知っていますか?

そう、あの世界遺産の熊野古道です。

僕は今回、世界遺産を巡りつつ『艦これ』の聖地を訪ねました。

和歌山県那智勝浦町

熊野那智大社

ここに本日のヒロイン

重巡洋艦『那智』がその艦内にお祀りした神様の神社があります。

とはいっても、写真はいきなり別宮の飛瀧神社(ひろうじんじゃ)ですけど
kumanonatitaisya 別宮りさ.jpg

この神社は拝殿も本殿もないちょっと変わった神社で、ご神体が目の前をダイナミックに下る

那智滝(なちのたき)となっています。

なので、お参りする時は直接、滝を拝むことになります。
那智御滝りさ.jpg
この滝の飛沫を浴びると延命長寿のご利益があるらしいですよ。

それでは、艦これ那智の聖地である社殿へ向かってみましょう。

杉林を縫うように石段が続き、平安時代の熊野詣でを肌で感じる事ができる熊野古道。
世界遺産熊野古道りさ.jpg
熊野古道は

大阪から和歌山県田辺へ通じる紀伊路(きいじ)

高野山から熊野三山を結ぶ小辺路(こへち)

同県田辺から熊野三山を結ぶ中辺路(なかへち)

同じく田辺から本州最南端の町、串本。そして熊野三山へと海辺を経由する大辺路(おおへち)

そして最後に伊勢神宮から熊野三山へと通じる伊勢路(いせじ)

と、総延長は600kmに及ぶ長い長い参拝道であります。

けれども、世界遺産に登録されている距離は200kmほど。

ほとんどは生活道だったり隣を車道が走っていたり。

はたまた古道が土の中に埋まり、発掘ができていないなどがあります。

ユネスコの世界遺産に登録されている『道』はフランスとスペインの

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼道と熊野古道の3例しかないので

世界遺産としては非常に珍しいものになります。

長い参道の途中にはお茶屋さんもあるので、境内散策への燃料補給もできます。
参道にはお土産屋さんもあるよ8.jpg

ご当地の那智黒飴ソフトも激しくオススメ!
那智黒飴ソフト!!これおいしいりさ!.jpg
ちょっと不恰好だけど、飾らない素朴さってやつよ

那智山熊野権現りさ6.jpg

鳥居をくぐって手水舎で身を清めましょう。
ぢょぼぼりさ8.jpg
だれかここでバケツを持ってガチの禊(みそぎ)やってみて

僕がちょこっと指先を濡らす程度だったのは、穢れが落ちすぎて僕と言う存在が

消えてしまわない様に。

ここで速攻で拝殿にお参りしてもいいのだけれど、熊野本宮大社、熊野速玉大社にはない所へ

行ってみましょう。

達筆じゃりさ7.jpg

西国一番霊場 那智山青岸渡寺りさ.jpg

お寺です。

神社の境内にお寺?って不思議な感じですよね!

他の二社では明治の神仏分離令の際、仏堂は廃されたのですが熊野那智大社では建物が残され

青岸渡寺として再建されました。

青岸渡寺は西国一番霊場であり霊験あらたかなお寺となっています。

そして、いよいよこちらが重巡洋艦那智の聖地、熊野那智大社です
巨大おみくじりさ!!!4.jpg
聖地巡礼兼三社参りに世界遺産とはなんと贅沢な!!

ちなみに写真左下の女性が抱えている大きな筒。

おみくじでっせ。

冗談みたいにデカいよね!!

奥の方は親子三人でおみくじに挑戦。

微笑ましいお正月の光景です。

それでは熊野那智大社に着いてもう少しだけご紹介。
絶景リサ.jpg
熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社と共に熊野三山の一社です。

全国で約4000社ある熊野さんの御本社で御祭神は熊野夫須美大神(くまのむすひのおおかみ)

イザナミノミコトと紹介すれば聞いたことがあるかもしれませんね。

御神徳は人の縁のみならず、様々な願いを結び叶えてくれます。




後はいつもの艦むす&史実艦紹介

重巡洋艦 那智

誕生日 1927年6月15日

妙高四姉妹の次女。

出身は広島県の呉海軍工廠

艦隊きってのハンサムウーマン
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キリリとしていてとても頼もしい存在。

MVP獲得時には『今夜ばかりは飲ませてもらおう』とお酒好き。
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大人な雰囲気の那智だが、提督のスキンシップの反応は

『む?その行為は何だ?何かの戦術行動なのか?』と少々世間ずれ。

多分、提督の必死のアプローチに気が付いてくれないタイプ。




史実の那智

第一次世界大戦以降ワシントン海軍軍縮条約に調印した日本は艦艇の保有数、各艦種の排水量を

制限された。

1万トン以下、搭載できる砲の口径は20cm以下と定められた中で、最強の巡洋艦として誕生した

那智。
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彼女は生まれてすぐに『御大礼特別観艦式』に参加。

また、翌年には昭和天皇が行幸する際の『御召艦』に選ばれるなど栄光ある任務を次々とこなしていきました。




1942年2月27~3月1日に行われたインドネシアのスラバヤ沖海戦

この海戦は資源を求め南進する日本とそれを阻止するアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアのABDA艦隊の

戦いだった。

出撃当初、妙高型2隻での出撃だったが、戦闘が長引いて弾薬の消耗が激しかったため

別働隊で動いていた妙高、足柄を呼びつけ4姉妹そろっての戦いとなった。
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那智率いる艦隊は連合軍艦隊と会敵。

長距離から砲撃、雷撃戦を行うアウトレンジ戦法に固執した日本。

敵艦艇8隻を沈めるものの魚雷の早爆問題が露呈し、更には敵艦を沈めた際に喜んで万歳している

間に残りの敵がみんな逃げてしまったことが失敗。

ともあれ、艦隊は勝利を収めジャワ島を占領することが出来た。



4月11日

那智は北方で活躍する為厚岸(あっけし)に入港。

第五艦隊旗艦となった。

5月26日

アリューシャン作戦の為、大湊を出港。

以後北方海域で作戦行動に着いた。




1943年3月27日

アッツ島への輸送任務中に米軽巡洋艦リッチモンド率いる艦隊と偶然遭遇。

アッツ島沖海戦が始まった。

典型的な昼間水上戦闘は日本艦隊の消極的な戦闘指揮により、致命傷まで追い込んだ

米重巡洋艦ソルトレイクシティを取り逃がしてしまった。




レイテ沖海戦

1944年10月23日~10月25日

日本は大戦当初の勢いを失い満足な戦果をあげられずにいた。

同年6月に行われたマリアナ沖海戦では大鳳、飛鷹、翔鶴などの空母を失い現有の航空戦力は

ほんの一握りの僅かな物であった。

マリアナを手中に収めたアメリカ軍は日本本土、フィリピンが攻撃可能になりいよいよ

戦いに王手がかかった状態になる。

フィリピンを抑えられれば天然ガス、石油、ゴムなどの資源を本土へ輸送できなくなる。

本土防衛はもちろんのこと、フィリピン陥落は日本にとって死そのものであった。

この窮地を脱する為、日本海軍は総力を揚げレイテ突入の作戦を遂行。

残存する空母を囮とし、水上打撃部隊で敵輸送船団、陸上部隊、物資の撃滅を狙ったのだ。

その史上最大の海戦に本日のヒロイン、那智の姿もあった。


10月25日午前3時

漆黒の海に轟音と閃光が瞬いた。
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スリガオ海峡は燃えていた。

多数の艦艇が紅蓮の炎をまとい、沈みかけている。

その光景を視認した那智は歓喜に沸いた。

先にこの海峡に到達した西村艦隊が米海軍を蹴散らしたのだ!!

しかし、歓声も絶望の声音へと変わるのに時間がかからなかった。

燃えながら半分に折れ沈みかける巨大な戦艦・・・・それは扶桑だった。

西村艦隊旗艦山城もまた炎を上げその巨体を横にしたまま海へと引きずり込まれようとしていた。

辛うじて海上に浮いているが大破炎上しているのは重巡洋艦最上と駆逐艦朝雲。

駆逐艦時雨は中破。舵を損傷し修理しながら退避中。

那智は自分の後に続けと伝えるが時雨からは舵故障中と返信があり、単艦で退避していった。

その光景を前に那智は妹の足柄共々、言いようのない不安に駆られていった。



西村艦隊に健在艦は一隻もない。



那智は停止し炎上中の最上の前を通ろうとした。

実は最上は微速前進しており衝突。

最上の被害は軽微だったが、那智は艦首を破損。最大速力が低下する。

この衝突事故が原因で、那智率いる志摩艦隊は戦場を離脱。



悪夢のような夜は明けた。

最上は駆逐艦曙が護衛につき退避していたがアメリカの水上艦艇、艦載機、基地航空隊から

反復攻撃を受け25日、午後1時に。

志摩艦隊の阿武隈も26日に沈没。

マニラを目指して退避する志摩艦隊。

退避中に負傷し、瀕死の状態だった栗田艦隊の重巡洋艦熊野を発見し、妹の足柄と駆逐艦霞を

救援に向かわせた。

14時

那智、駆逐艦不知火はコロン湾に入港

足柄、霞は16時28分に重症の熊野を救助し港にたどり着いた。

入れ替わりに不知火は僚艦救援の為出撃。

捜索中に空襲を受け撃沈された。







那智の最期
レイテ沖海戦の敗北後、第五艦隊所属艦はマニラを拠点に敵制空権下での輸送任務に従事することになる

マニラ湾には潜水艦の雷撃で大破した重巡洋艦青葉の姿もあった。

10月28日には重巡洋艦熊野、駆逐艦沖波も入港

10月29日 マニラはアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け那智をはじめ、

熊野、青葉も標的となってしまった。

この空襲で那智は飛行甲板に小型爆弾が命中。

魚雷二本に誘爆。那智は被害を受けた。

この状況を受け、熊野は台湾への退避準備を開始。

10月31日レイテ沖海戦に参加したのち、奄美大島に停泊していた軽巡大淀と

駆逐艦若月がマニラに到着。

11月1日那智の水上偵察機がセミララ島に座礁した駆逐艦早霜を発見。

不知火の最後の情報を得た。

11月5日早朝

熊野、青葉は輸送船団と合流。アメリカ軍機数十機を認める。

大淀はマニラ湾を発ちボルネオ島へ向かっていた。

その頃、マニラでは那智以下多数の艦艇がアメリカ軍機の空襲を受けていた。
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猛攻を避けるべくマニラ港を脱出した那智だったが

今度は米空母レキシントンからの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷が命中。

やがて、船体は二つにへし折れ海中へ没した。

妙高型重巡洋艦4姉妹で最初に倒れた那智。
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誕生以来、輝かしい任務につき北方海域でも、南方の作戦でも旗艦を務めてきた那智。

彼女の性能は世界有数の物であったが指揮官に恵まれなかった生涯であった。




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