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艦これ 名取 聖地巡礼 [聖地巡礼]

2017年5月
仙台の八重.jpg
宮城県の仙台に来ております。

今日は『艦これ』に登場してくるキャラクター『名取』の聖地巡礼なのです。
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青葉神社。

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同ゲームには重巡洋艦『青葉』って出てくるけど、『名取』の聖地です。

『名取と言います。ご迷惑をお掛けしないように、が、頑張ります!』
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軽巡洋艦 名取
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かつて日本帝国海軍の艦艇として実在した軍艦で、その名は宮城県を流れる名取川から付けられた。

1922年2月16日生まれの彼女は、長良型六人姉妹の三女。

大正時代に数多く建造された5500トン級の一人で長女『長良』『五十鈴』『名取』を含め、

妹達に『由良』『鬼怒』『阿武隈』と賑やかな家庭環境で育っている。

性格も至って控えめでやっぱり姉妹達により、上から下から圧力がかかる為であろうか?

解るよ、その苦労(血涙)

しかしながら、『名取』の完成当初は高速軽巡洋艦と言うこともあり、水雷戦隊の旗艦として

海を駆け回る。




建造当初、素早さが売りの彼女は金魚すくいが得意なのか夏祭りでしっかり健闘した様子が伺えます。
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けれど、この夏グラ。

よく見てみると金魚以外にも、変な物を捕まえたようです。

深海棲艦?



この青葉神社の分霊を祀っていた軽巡洋艦『名取』ですが

名取の神様はあの戦国乱世に名を刻んだ伊達政宗と言うことになります!

かっけぇぜ!
独眼竜.jpg

恒例のイタ絵馬探し
この人はまた仙台にこれたのかな.jpg
あった!

描いてくれてありがとーっ( ≧∀≦)ノ




略艦歴

『て、敵艦見ゆ!・・・・って、ホントに実戦!?』

1941年4月
日米関係の決定的な決裂の要因となった南部仏印進駐作戦に参加。

12月10日
フィリピン諸島のアパリでB-17の攻撃を受け、至近弾により損傷し、多数の死傷者を出したが

12月22日のリンガエン湾上陸作戦に従事。

12月31日より第二次マレー部隊に編入された。

1942年3月1日
バタビア沖海戦にて米重巡洋艦『ヒューストン』撃沈に貢献。

3月10日
第2南遣艦隊第16戦隊の旗艦となり東インド方面の警戒任務を行った。

1943年1月9日
アンボンへ向かう途中、米潜水艦『トートグ』の雷撃を受け後部を損傷。

その際、名取は14cm砲でトートグの潜望鏡を破壊し撃退している。

名取はアンボンで修理を行うも、同月16日、21日にB-24の空襲を受け、至近弾により再び損傷を受けた。

度重なる攻撃と負傷のため、護衛されつつマカッサルへ後退するも、再来したトートグによる

攻撃を受ける。

この時も名取は14cm砲で水面を撃ちまくり、追い返している。
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マカッサル、シンガポールを経由した名取は、舞鶴港へと帰還。

1年と3ヵ月の改造期間を経て改装し、2機の主砲と引き換えに

高角砲や対空機銃を増設。

修理と改装を終えた『名取』は訓練、輸送任務を遂行する。




1944年6月

マリアナ沖海戦にて、機動部隊の補給と護衛を行う。

8月8日

フィリピン諸島からパラオに輸送任務を行っていたところサマール島東方水域で

米潜水艦ハードへっどの雷撃を受け直撃弾を食らう。

『名取』は損傷直後にも関わらず発見した潜望鏡に対し、高角砲と機銃を即座に連射。

それ以上の追撃を断念させる。

被雷後は浸水が徐々に拡大。

やがて機関が停止。

7時05分

『名取』は艦首から逆立ちするかのように暗い海へと沈んでいった。

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艦これ 羽黒 聖地巡礼 [聖地巡礼]

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燃料、食糧、水の全てがギリギリだった夜が明けました。

燃料があと僅か.jpg

2017年5月某日。

この日は出羽三山神社に向かいました!

そうだよ。

いつもの聖地巡礼だよ。

艦隊これくしょん『艦これ』の登場人物でもあり、当時の海で暴れまわった史実の軍艦

重巡洋艦 『羽黒』の艦内神社となったのがこちらの神社なのですよ。
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随神門.jpg
随神門を潜ると神聖な空気が僕の身を包みます。

ここからが素晴らしく・・・・キツイ!.jpg
ここから社殿までが地獄の様にキツイのです。

羽黒山五重塔.jpg
五重塔

生命.jpg

ミシュラン・グリーンガイドジャポンの道.jpg
ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで紹介された杉並木の石段は山頂まで2446段、約2kmの

道のりとなります。

羽黒山の石段2446段 約2キロ.jpg

杉並木.jpg

途中の二の坂茶屋で一息つきましょう。
二の坂茶屋.jpg

御抹茶がおいしい.jpg
力が湧いてくるぜ!

遠く庄内平野を眺めているとこれをもらいました
庄内平野が見渡せる.jpg

レオナルド・ディカプリオ殿だなんて.jpg

33ある絵の内、18個を見つけると願いがかなう.jpg
石段を歩いているとこんな絵を発見しました。

参道には33個の絵があるらしく、うち18個を発見すると願いがかなうんだって。

え・・・・山頂付近でいくつか見つけただけやけど?

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とても静か.jpg
山頂近くには斎館と言う宿坊もあります。

宿泊の際には精進料理を頂くのもいいですね。

最後の鳥居を潜れば拝殿が見えてきます。
羽黒山の鳥居をくぐる.jpg

屋根綺麗にしまっせ.jpg
茅葺屋根のメンテナンス中じゃったp(´⌒`q)

月山、羽黒山、湯殿山をお祀りした三神合祭殿。
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古く修験の場として繁栄してきた面影を今に伝えています。

拝殿の萱葺は厚さ2.1mにもなる重厚な物。

萱葺の構造物としては日本最大。

立派であります.jpg
鐘楼も立派!

自分の金運を第一についでに世界の平和を祈った出羽三山神社 聖地巡礼。
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下山した後は美味しい物を頂きます。
こちらのお店で頂きます.jpg
山形と言えばコレ!!
山形県民熱愛のたまこん.jpg
ソウルフードたまこんにゃくヾ(≧∇≦*)/

と言いたいけど、体質的にこんにゃくだけはだめなのです(இдஇ; )

なのでこちらで(´∧ω∧`*)
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麦きりです。

そうめんとうどんの中間のような太さ。

シンプルなうまさがたまんねぇぜ。




最後に史実とゲームでの彼女をごちゃ混ぜにしてご紹介♪

重巡洋艦 羽黒
ラバウル 空襲を受ける羽黒.jpg

羽黒です。妙高型重巡洋艦姉妹の 末っ娘です。あ、あの…ごめんなさいっ!

名前の由来は山形県の羽黒山から。

彼女の誕生日は1928年3月24日(進水)

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羽黒の誕生.png

長崎で生まれた彼女の艦内艤装はそれまで、イギリス様式が色濃く表れていた日本軍艦勢に比べ

日本色を出したものとなった。

第五戦隊の中心的存在で大戦初期から海軍最後の水上戦まで戦い抜いた武勲艦であり幸運艦。

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ゲームでは遠慮がちでおどおどしたキャラクターで4姉妹の中でも幼さが残る容姿。

俺提督的には護って上げたいキャラNo1なのですが、いぢめてオーラを鋭敏に嗅ぎ分ける

鬼畜提督の諸君は中破グラフィック固定で秘書艦にして遊んだのは

1度や2度ではないはず。

背後の気配と音量には気を付けろよ。

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おい!誰だ!!執務室に布団を置いたやつは!!

分かってるジャマイカ

私より、あの娘を先に…

入渠や改装では他の艦娘を優先させてほしいなど大人しい彼女も

戦闘となれば頼もしいセリフもチラホラ。




史実の重巡洋艦 羽黒はと言うと幸運艦でありながら大戦初期~大戦末期までを戦い抜いた武勲艦

全砲門、開いてください!

最前線での先制攻撃や迎撃を担う部隊『第二艦隊』

重巡洋艦 羽黒はそんな真っ先に敵の脅威に曝される艦隊に所属していた。

旗艦を務めたことこそ少ないものの、スラバヤ沖海戦では姉の那智と共に

敵ABDA艦隊を追撃。オランダ軽巡洋艦デ・ロイテル及びジャワを撃沈し

イギリス重巡洋艦に直撃弾を喰らわし撃沈に追いやっている。

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初の4姉妹そろっての戦い




珊瑚海海戦

次女那智が北方方面へ転出後も長女の妙高と共に南方での任務を遂行する羽黒。

珊瑚海海戦では主に航空戦となったため目立つ活躍は出来なかったものの、水上偵察機を射出し

艦隊の眼となっていた。
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羽黒と那智所属水上偵察機・・・・ちょっと古い機体だけど。




ミッドウェー海戦

日本海軍が主力空母4隻を立て続けに失い艦隊は撤退を余儀なくされた。

ところで羽黒くん。

僕たちこのまま撤退しなきゃいけなくなっちゃったんだけど、敵に背中を見せるのはちょっと

怖いんだよね。

妙高おねぇちゃんと一緒に殿(しんがり)頼める?

貴方たちの背中は、私が守ります!

け・・・・健気だ(涙)

この戦争のターニングポイントとなった戦いで羽黒は殿(しんがり)となり

太平洋のど真ん中のウェーク島で偽の電文を流しながら数日間に渡り一生懸命走り回ることになる。

本格的な追撃があったらヤバかったな。




ブーゲンビル島沖海戦

ソロモン諸島での戦闘が激しさを極める中、妙高、羽黒は同島への上陸を計ろうとする輸送船団の

撃滅の為出撃。

これを阻止すべく対抗するのが第39任務部隊。






艦隊の動きを逸早く察知したのは高性能なレーダーを使っていた米軍であった。

羽黒が所属する第五戦隊も16000mの距離で敵を確認し

日本海軍初の照明弾で暗闇を照らしての砲撃。

戦闘状態に移行した第五戦隊。

綺麗に陣形を組んでいたが、夜闇の中での回避運動は至難であり、陣形が乱れ艦艇同市の衝突が

相次ぎ場は混乱した。

その騒動の中にいたのが長女の妙高だった。

彼女は駆逐艦の初風と衝突。

初風は船首を失い、妙高は速力が低下した。

これを目の前にした羽黒は自身が壁となるべく妙高の前に出る。

砲撃が羽黒に集中する中、速度を取り戻した妙高は戦列に復帰。

日米共に縦並びとなる単縦陣による同航戦の形になり、全砲門が火を噴きあう真っ向勝負となった。

レーダーを使い敵を補足し、各艦を有効に働かせ射撃を行う第39任務部隊に対し

艦一隻、一隻の戦闘能力に頼り奮戦する第五戦隊。

特に妙高と羽黒の砲撃は夾叉弾を連発し、日本側にもレーダー射撃能力があるのではと

疑わせるほどだった。

この戦闘で米巡洋艦デンバーに3発命中させるがすべてが不発。

しかしデンバーはこの被弾で浸水し速力が低下。

一方、羽黒でも6発の被弾を受けるも幸運なことに4発は不発で轟沈を免れている。

この時点で周辺海域は照明弾と吊光弾の光を反射させた雲の影響で不気味な薄明りとなっていた。
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はい。もう少しで轟沈するところでした



これまでの戦いで軽巡洋艦 川内及び駆逐艦初風が沈没。

米艦隊は衝突や被弾による損害はあるものの沈没はなし。




この状況を鑑み必要以上の危険を嫌った第39任務部隊は煙幕を張り一時距離をとり、

第五戦隊はこの戦闘の要となった照明弾も尽き、翌朝からの空襲を恐れ撤退。

ブーゲンビル島沖海戦は日本海軍の敗北で幕を閉じた。




日本側の戦闘指揮について賛否あるものの、羽黒、妙高共に自分より高度に発達した敵を相手に

勇猛果敢に立ち向かい互角の戦いを繰り広げたことをモントピリアの乗組だった

ジェームズ・J・フェーイー氏も高く評価していたようだ。




陸海軍9万人がひしめくラバウル要塞は連合軍に包囲され度々空襲を受けていた。

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1943年11月2日

ブーゲンビル島沖海戦から帰還した直後の第五戦隊。

ラバウルには敵攻撃機約200が押し寄せた。

強力な対空砲火と迎撃機を警戒した連合軍は高高度から陸上施設や艦艇めがけて

爆弾を投下していくなか、羽黒が停泊していた場所は敵機侵入経路から陸上施設を挟んでいたため

自分に向かってくるほとんどの機体は爆弾を抱いていなかった。

幸運なことにほぼ損害の出なかった羽黒に対し、姉の妙高はタービンに亀裂が入る損害を被った。

ラバウル 空襲を受ける羽黒.jpg

ラバウルにて空襲をうける羽黒




ブーゲンビル島沖海戦の傷を癒すため、第五戦隊は一路佐世保を目指す。

ここでも幸運なことに、出航翌日にラバウルは再び大空襲を受けていた。




約1か月の修理を終えた羽黒は妙高と共に陸軍兵のカビエン輸送を命じられる。

揚陸作業の遅れから、敵機に発見され空襲を受ける寸前であったが幸運にも猛烈なスコールが

見えたため、その中に逃げ込こんだ。更に幸運な事に、そのスコールは羽黒が逃げる方向と

同じ方向へ進んでいたため、長時間隠れることが出来、難を逃れた。

この頃から、乗員の間で幸運の艦羽黒が合言葉となる。




トラック島空襲直前に出航。事なきを得る。
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空襲中に撮影されたトラック島.jpg

さらにその避難先のパラオ大空襲は、共に事前に察知して出航し、難を逃れている。
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羽黒は他の艦と共にはるか西方のリンガ泊地へ後退した。





1944年5月末、ビアクに上陸した米軍に呼応して連合艦隊は渾作戦を発動。

ビアク島守備隊支援のための逆上陸。また、米主力艦隊をパラオ付近に誘い出し決戦を挑むため

羽黒もこれに参加し兵員輸送の警戒隊に参加するが、無駄に重油を消費し貴重な戦力が

削がれるだけの作戦を行っているうちに、米機動部隊はマリアナ諸島に来襲。

連合艦隊は渾作戦を中止し、羽黒にも直ちに本隊合流の命が下った。

絶対国防圏を巡る熾烈な戦い。

マリアナ沖海戦の幕開けである。



1944年6月19日

羽黒は空母大鳳の直衛として輪形陣の一角を成した。

7時25分から13時40分に至るまで日本海軍は艦載機による攻撃を6回にわたり実施しているが

送り出した攻撃機の大半は撃墜され未帰還のままという大損害を被った。

航空隊の動きとは別に

8時10分

大鳳が米潜水艦アルバコアの雷撃に遭い、発射された6本の魚雷のうち1本が命中した。

この時点での損傷は修復可能で戦闘続行できるものであった。

11時20分。

日本の艦隊に接近していた米潜水艦カヴァラが発射した4本の魚雷が正規空母翔鶴に命中。

翔鶴は14時10分に沈没。

14時32分には大鳳が突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。

脱出した小沢長官や古村参謀長を収容し、一時的に艦隊旗艦を務めた。

しかし、羽黒の設備では通信能力が不足するため、機動部隊司令部は結局瑞鶴に移った。




大鳳沈没後の翌6月20日

米機動部隊から発進した航空機216機からの攻撃を受ける。

羽黒は対空砲火で敵機を5機撃墜。艦自身は大した損害を受けていないが、

羽黒乗員に戦死者は若干出ている。

また、この空襲で迎撃に飛び立った零戦23機が撃墜され、

商船改造空母飛鷹、逃げ遅れた補給艦2隻が航行不能になり自沈処分された。

艦隊は夜戦に突入すべく東進していたが、作戦中止の命を受け北西に変針した。




レイテ沖海戦

羽黒は第一遊撃部隊第一部隊第五戦隊に所属

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10月23日0時、パラワン水道の入り口に達する。

ブルネイ泊地を出撃した翌10月23日6時33分、バラワン水道にて潜水艦の襲撃を受ける。

愛宕が沈没し、高雄が自立航行出来ないところまで追いつめられ第四戦隊は壊滅。

6時57分

羽黒にも5本の魚雷が向かってきた。とっさの操艦によって前の4本をうまく回避し、

回避不可能と思われた1本も幸運な事に直前で水面航走を始めて速度が落ちたために回避できた。

しかしその魚雷が、そのまま後続にいた摩耶に命中、轟沈させている。
1944年10月23日黎明。旗艦愛宕被雷時の第一遊撃部隊第一部隊の隊形.svg.png




10月24日

シブヤン海では熾烈な対空戦闘を行っている。

10時26分より始まった攻撃は6度に亘り絶え間なく行われ、これにより妙高は大破撤退。

羽黒が戦隊の旗艦を務める。











翌10月25日のサマール沖海戦では、護衛空母6隻、駆逐艦7隻からなる護衛空母群タフィ3に向かって

全軍の先頭で突撃した。延べ100機にも及ぶ敵機の妨害と護衛駆逐艦の必死の反撃で

熊野、鈴谷、筑摩、鳥海が被害を受け落伍していく中、第二砲塔に爆弾を受け中破するものの、

他に唯一落伍しなかった利根、単独で進撃してきた金剛と共に護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈、

同じく「ファンショー・ベイ」「カリニン・ベイ」に損傷を与え、

駆逐艦「ホエール」「「サミュエル・B・ロバーツ 」を撃破し、最もレイテ湾に肉薄している。

早朝、輪形陣を形成中の艦隊は、遠方に敵の空母群らしきマストを発見した。

皆、これを正規空母からなる高速機動部隊と誤認。一刻を争うとの判断から隊列整形を捨て、

まずは重巡戦隊、ついで戦艦戦隊に突撃が命じられた。残燃料に不安のある水雷戦隊は

重油を浪費せぬよう待機。羽黒は漸次増速、鳥海を率いて突進した。

羽黒らにとっても予期せぬ会敵だったが、タフィ3にはまさに青天の霹靂であった。

煙幕を張り、護衛の駆逐艦に重巡の足止めを命じ、艦載機を手当たり次第放って妨害に当たらせ、

周囲のスコールを隠れ蓑に全速力(といっても17.5ノット)で逃走にかかった。

羽黒は突撃しながら大いに暴れ回り、主砲の20cm砲弾を9割以上も発射。

当時の砲術長は帝国海軍最高射弾数の記録を塗り替えている。羽黒も反撃で爆弾2発、

駆逐艦の主砲直撃、機銃数千発の被害を受けており、当時の戦いの激しさが想像できる。

また、直撃と思われた敵の航空魚雷が深すぎたせいで、船の真下を通過していくという幸運に

恵まれたおかげで無事に帰還を果たしている。

鳥海とともに敵空母へ砲撃中、突如飛来した敵機により2番砲塔に爆弾が直撃する。

天蓋には大穴が開き、殆どの砲員が死傷し或いは気絶した。注水は遅れ、あわや陸奥の二の舞寸前と

なるところまでいったものの、幸運にも一人の若い水兵が意識を取り戻し、たった一人で冷静に事態

に対処したために事なきを得た。

歴戦を戦い抜き高い練度と技量をほこる羽黒の乗員であったが、

この一発は止むを得ないものがある。敵機の行動から爆弾や魚雷を粗方発射し終えたものと判断され

たため、被弾を覚悟で敢えて回避を一切せず、少しでも距離を詰めるべく

一直線に突撃していた最中に落とされたものであった。

対空と対艦を同時にこなさなければならない難しく危険な戦闘であったが、

杉浦艦長は時折笑みを見せることすらあったという。

遮二無二突撃した結果、羽黒は大きく突出し、味方は水平線の彼方に戦艦のマストの先が

見えるのみであった。周囲には羽黒と利根の2隻以外おらず、

執拗に喰らい付く羽黒に攻撃が集中しつつあった。これを見た利根は大きく転陀し、

敵の攻撃を分散させるべく自ら羽黒の後方に付いた。

いよいよ追撃戦も大詰めと見えたそのとき大和より集合命令が届いた。

已む無く戦闘を中止し、未練を残す利根を連れ反転した。

羽黒たちの攻撃を受け、危機に陥ったアメリカ第7艦隊の護衛空母群の1つ(タフィ3)が、

第34任務部隊*29に救援を呼んだが、幸運なことに、この要請は取り合われなかった。

さらに幸運なことに、状況を見かねたハワイのニミッツ提督が発した電文に指揮官の

ハルゼー提督が大激怒。

憤怒のあまり延々とこの電文にこだわり罵り続けたため増援の派遣が一時間も遅れ、

結果、羽黒たちは増援部隊に会わず無事シブヤン海へと脱出した。

艦隊が突入を取りやめ、北方にいると連絡を受けた敵艦隊の追撃を開始した栗田艦隊は、16時過ぎに

友軍機の大編隊と遭遇する。これは昼に栗田艦隊が発信した「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」の

無電を受けて出撃した第二航空艦隊の攻撃隊であった。作戦開始以来初めて見る友軍機の編隊に

艦隊将兵は勇気づけられたという。ところが直後の16時40分、栗田艦隊は米軍機の空襲を受け応戦、

一方の第二航空艦隊の攻撃隊は目標を見つけられず、それどころか米軍機の迎撃を受け四散する。

その時、必死に敵艦隊を探す99式艦爆の一隊が空襲を受ける栗田艦隊を視認。

ところがそれを「攻撃隊の空襲を受ける米艦隊」と思い込み、なんと米軍機と一緒になって

栗田艦隊を攻撃、悪い事に目標となったのは羽黒だった。

幸いこの爆撃は命中する事はなかったが、栗田長官は直ちにこれを通報、同時期退却する

熊野でも誤爆騒ぎが発生しており、基地航空隊側はこれを受け当日の航空攻撃を全て

取り止めてしまった。




あくる10月26日、シブヤン海を西へ西へと退避する栗田艦隊に米機動部隊が追撃を加えてきた。

艦隊は大和を中心に輪形陣を敷いて応戦するが、一昨日シブヤン海を東進したときに比べ、その数は

ほぼ半減していた。

この日も朝から敵の索敵機が姿を見せ、その後の大規模な空襲を予感させた。.

触接機が姿を消して間もなく、約30機の敵機が現れ上空に殺到、攻撃を開始した。

羽黒の記録では14回目となる対空戦闘の始まりである。

空襲が始まると敵機の数はあれよあれよという間に増えていき、仕舞いには80機にもおよぶ

大群となった。羽黒にも艦尾方向から急降下爆撃機の小隊が襲い掛かってきたが、連日の対空戦闘で

鍛え上げられた機銃群がこれに素早く砲火を集中。投下された爆弾も回避し、

その後さらに敵機1機を撃墜。この空襲も無事に切り抜けた。

一方で輪形陣の先頭を走っていた能代が集中攻撃を受け、奮戦空しく被雷、落伍していった。

左に傾斜し、羽黒の右後方に遠ざかっていくその姿は、一昨日同じ海で落伍した妙高を

連想させたという。

取り残された能代が第2波の攻撃を受け最期を迎えている頃、先行する本隊はB-24の大編隊による

重爆撃を浴びていた。羽黒15回目の対空戦闘である。羽黒がはじめて経験する大型機の水平爆撃は、

予想外に空母機の爆撃よりも回避の余裕があったという。

しかし多数の500Kg爆弾が作りだす水柱は凄まじく、その振動は不気味に羽黒を揺さぶり、

吹き上げられる無数の弾片は乗員の脅威であった。幸い被害は殆んど無く昼過ぎには敵機も去り、

これが本海戦最後の空襲となった。

夕刻、島風、浦風など燃料の枯渇した駆逐艦が分離したため、艦隊の駆逐艦は雪風、

磯風のみとなった。その2隻も翌10月27日には燃料が尽きかけ、それぞれ榛名、長門から給油を

受けた。

羽黒と利根は駆逐艦に代わり、給油中の無防備な艦隊の警護にあたった。


ブルネイに艦隊として帰還できたのは羽黒を含めわずか9隻。各艦が何らかの損害を抱えていたが、

羽黒は2番砲塔以外全力発揮可能であった。栗田艦隊で最後まで戦闘力を保持した唯一の重巡だった。




帰投後のブルネイ湾では連絡役として沖に一隻で待機しているところに敵機が来襲。

単艦の羽黒に敵機の攻撃が集中するが、見事な操艦でこれを交わして生き延びている。

レイテ沖海戦の後、羽黒は南西方面艦隊に編入された。多くの艦が修理のため本土へ帰還する中、

充分な戦闘力を保持していた羽黒は反撃に備え南方に留め置かれたものと思われる。

昭和19年の年の暮れ。羽黒は姉の妙高救援に出動した。本土へ回航中、

潜水艦の雷撃で大破したのだ。サイゴン近海からシンガポールにかけては敵潜水艦の多い危険海域で

あり共倒れを心配する声もあったが、多数の海防艦、哨戒艇の援護もあり、妙高を曳航し

無事シンガポールまで連れ帰った。妙高が生き残れたのは羽黒のおかげと言っても過言では無い。

1945年(昭和20年)、年が明けて、それまでずっと所属していた第二艦隊から南西方面艦隊に

編入された。この時、臨時に大淀が第五戦隊に加わり、短い間であるが北号作戦で大淀が四航戦らと

共に本土に帰還するまで2艦で隊を組んでいる。

同年2月5日に、新設された第十方面艦隊に組み込まれ、足柄とのコンビで第五戦隊を編成。

シンガポールを拠点に行動した。第十方面艦隊は独立艦隊であり、

そこの主力重巡といえば聞こえはいいが、この頃すでに本土と南西方面は米軍に分断されており、

連合艦隊の置き去り宣言に等しい。

南方は資源に余裕はあったが設備が無かった。海軍の一大拠点であるシンガポールも、

度重なる空襲でその機能を失いつつあり、もはや羽黒は満足な修理も補給も受けられなかった。

羽黒は前の戦闘の怪我を我慢しながら、姉の足柄と共に訓練に励み、輸送任務をこなし、

勢いを増しつつある英海軍に対峙した。




大戦末期、羽黒はシンガポールにあった。ドイツを降し、対日戦に本腰を入れ始めた英軍の勢力は

日に日に増しており、劣勢の日本軍は兵力を集中させる必要が生じた。その動きの一環として、

羽黒にインド洋アンダマン諸島に物資を輸送、一部の人員を引き上げさせよという命令が下った。

この方面でまともに動ける艦は羽黒、足柄、

旧式駆逐艦の神風の3隻のみとなっており、

貴重な海上戦力であった。

輸送船ももはや無かったため、大型艦である羽黒に

白羽の矢がたった。

この時の羽黒の状態はとても良いとは言えなかった。

本土との連絡が断たれたため、充分な補給や修理は

受けられない。

先のサマール沖海戦での第二砲塔損傷、

セレター軍港での触雷による水面下の損傷、

更にその後英空母「シャー」による空襲を受け、

これらの被害を抱え込んだままの、

ほぼ中破状態であった。

少しでも積載量を稼ぐため、酸素魚雷と発射管は

撤去され、主砲の弾薬は定数の半分に減らされた。

甲板には燃料を入れたドラム缶を満載、艦内も食料、

医薬品、小銃弾などが所狭しと積み込まれた。

軍艦としてはまさに手足を縛られた状況であったが、

『重巡』羽黒最後の奉公ということで乗組員の士気は

高かったという。

護衛に神風を伴い、羽黒は最期の航海へと出発した。

しかし、その日のうちに潜水艦に発見されており、

羽黒の行動は英海軍の知るところとなった。

この輸送任務の妨害および掃討作戦のため、

戦艦「クイーン・エリザベス」を旗艦とし

第21護衛空母群や第26駆逐隊などからなる

第61部隊はアンダマン・ニコバル諸島方面に展開を

始めた。

羽黒は慎重に行動した。引き返して見せたり

偽装航路をとるなどし、敵の目を欺こうとした。

しかし、潜水艦の奇襲やB-24の接触、

味方哨戒機による敵艦隊の情報から、

英軍に付け狙われていると察した橋本司令官は

作戦中止を決意。

反転してシンガポールへ引き返すことにした。

深夜午前2時頃、ペナン沖。

羽黒の電探は近づいてくる影を捉えた。

すでに味方の勢力圏内であり、これが敵だとすぐには

認識できなかった。作戦中止で緊張が解けていたのも

災いした。近づく艦影が敵だと気づいた時には、

もはや近距離まで踏み込まれていたのである。

夜戦を挑まれた羽黒は果敢にも打って出た。

懐に入り込まれていたこともあるが、

敵は駆逐艦であり、重巡の火力と足があれば

振り払うことも不可能ではないはずであった。

だが、積み込まれた物資と蓄積していた損害が羽黒の

動きを縛っていた。特に甲板高く積まれたドラム缶は

主砲の旋回を妨げ、艦内深く残る損傷は羽黒に

高速発揮を許さなかった。

羽黒を捕捉したのは英国海軍第26駆逐隊所属の

最新鋭駆逐艦「ソマレズ」「ヴィラーゴ」

「ヴィーナス」「ヴェルラム」「ヴィジラアント」の

5隻であった。昼間、真正面から重巡と撃ち合うのを

避け、日が暮れるのを待ってから大胆にも

マラッカ海峡に侵入してきたのである。

甲板のドラム缶を投棄しつつ漸次増速、

探照灯を照射し主砲を旋回させるが尽く後手に

回っている感は否めなかった。

それでも二斉射目が「ソマレズ」に命中し、

火柱を上げる。だが、直後に魚雷1本が羽黒の前部に

命中。この一撃で羽黒の電源が停止、

全機能が麻痺してしまった。

さらに甲板に積み上げられたドラム缶の燃料に引火、

大火災発生。

闇夜の松明となった羽黒を敵艦は取り囲み、

さらに砲火を集中させた。
60082281_p0.jpg
後続の神風は、この状況を見て形勢不利を悟り戦闘を

断念、断腸の思いで煙幕を展張しつつ全速力で

離脱した。

この時、羽黒のほうでも神風に離脱するよう命令が

出ていたのだが、全電源が停止していた羽黒には

伝える術がなかった。

断末魔の様相を呈しつつある羽黒だったが、

その闘志は一向に衰えていなかった。火だるまになり

大きく傾きつつある中、人力操舵で艦のコントロールを

取り戻し、一部電源を復旧させ、生き残った砲は

周囲の敵艦に射撃を続けていた。

しかし、2本目の魚雷を機関室に被雷ついにその動きは

止まった。

この時点で退艦命令が出るが、直後に敵弾が艦橋を

直撃、司令部が壊滅してしまう。だが一部のもは

退艦命令を拒否。ここを死に場所と考え、

高角砲を人力で動かして戦闘を続行した。

行き足を失い、電源は破壊され、

指揮系統も寸断された。火災はなお激しく、

四周から打ち据えられた艦上構造物は、

まさに削り取られるかのごとく破壊され廃墟と

化していく。それでも羽黒は撃ち返した。

しかしいくら頑張ろうとも、もはや大勢は決していた。

午前3時33分に4発目の魚雷が命中。

停止してから約1時間。傾斜し、火災を発し、

加速度的に累加する被害にのたうちながら尚も激しく

戦闘を続けた羽黒だったがこの一発でついに力尽きた。

同乗していた

第五戦隊司令官橋本信太郎中将、

艦長杉浦嘉十少将以下およそ800名が艦と

運命をともにし、

艦尾を高々と上げて美しいペナン沖へと没していった。

大火災の劫火を背負い、雨のごとく浴びせられる

集中砲火の中からなお反撃する羽黒を見た神風乗員は、

その様をまるで阿修羅の如しと評し、英軍は戦後、

最後の最後まで撃ち続けたその闘魂を絶賛、

交戦した英国司令官をして日本海軍の精華なりと

称賛せしめている。

その後、ペナン港で燃料補給と損傷の応急処置を

済ませ、味方航空機の先導を受けつつ全速力で

引き返してきた神風により320名が救助された。

また、英軍側もカッターを出して生存者の

救出をしている。羽黒の沈没により、

シンガポールで健在な艦艇は、足柄と神風の

2艦のみとなった。

ペナン沖にただ一人沈んだ彼女だが、

元乗員の手記にはこう記されている。

「この作戦後、羽黒は浮き砲台になる予定だった。

スラバヤ、バタビヤ、ミッドウェー、ソロモン、

ブーゲンビル、サイパン、レイテと羽黒は海の

勇者とともにあったと思った。単なる鉄の塊でなく、

羽黒はしだいに魂を持つようになったと。

セレター軍港奥深く着底して、死に体のようになって、

朽ち果てることをいさぎよしとしなかったように

思われた。生ある者のように、魂ある者のように、

青く澄んだ印度洋の海原に躍り出てきたとしか

思えなかった」と。




沈没後、約60年間静かに眠り続けた羽黒が一人のダイバーに発見された。

甲板を上にして海面下66mから光を望んでいた。
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宙のまにまに 聖地巡礼 [聖地巡礼]

まだまだ続く去年のツーリングネタ。

福岡県から陸路で走る事1300km。

ここは福島県の猪苗代湖。
きたよ.jpg
仕事上がりに一睡もせずに走りました。




宙のまにまに(そらのまにまに)
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2009年7月7日から9月22日まで放送されたテレビアニメで、星々を観察する天文部を舞台に

様々な人間ドラマが展開されていく部活系のアニメになっています。




主人公、大八木朔(おおやぎ さく)は父親の単身赴任の為、かつて幼いころに住んでいた

小杉野市に返ってきた。

この作品のヒロインとなる明野美星(あけの みほし)とは幼馴染で、読書が好きな朔とは対照的に

星を見ることが大好きなアウトドアガール。

幼少期に嫌がる朔を散々外へ引っ張り出しては天体を観察していた。
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ある日、木から落ちた美星を助けようとして朔は腕を骨折してしまう。

その直後、父親の転勤が決まり引っ越しを余儀なくされるが、仲よくしていた美星が見送りに

来なかったことが幼い朔少年のトラウマになってしまった。




高校で美星と再会した朔だったが、過去の記憶から彼女を拒絶する。しかし後に誤解が解け

美星が所属する天文部に入部する。

最初は星に興味のなかった朔ではあったが、天文部の活動を通じ天体に興味を持つようになる。

と言うような序盤の流れだった・・・・はずヾ(-`ω´-o)ゝ。+゚

なんせ記憶が1年以上前p(´⌒`q)




原作 柏原麻美先生は『宙のまにまに』の他、『Hello, dear』『BanG Dream!』などなど

様々なコミック作品を生み出しています。




聖地は冒頭でもご紹介しましたが、福島県の猪苗代湖です。

第4話くらいに合宿の為、主人公たちが訪れています。
124893183894216310699_bscap0881.jpg

virusbuster01.png

virusbuster13.png

桟橋なくなってる!.jpg

天文部の活動は主に夜に行われるので、若い男女が夜活発に活動すると!!??

なんてちょっとドキドキしますが、男の子が期待する様なシーンがないのがこのアニメの良い所。

virusbuster43.png

背景くりそつ.jpg
アニメで登場する星々の配置や時間、季節などは実際にアニメの製作スタッフさんたちが

観測して記録したものを元に映像として作り上げる力の入れよう!

スワンボートホントにあった!.jpg

夏休みの自由研究に天体観測なんかもいいかもしれませんね(´∧ω∧`*)

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艦これ 阿武隈 聖地巡礼 [聖地巡礼]

福島県白河市にある鹿嶋神社
鹿島神社へ.jpg

福島県に来たついでに聖地巡礼もやっちゃいます。

DMM.comが配信するブラウザーゲーム『艦隊これくしょん 艦これ』

この作品に登場する艦娘(かんむす)

軽巡洋艦『阿武隈』

kancolle_kitakami_5-811x1024.jpg

前髪くしゃくしゃぁってされてる方です。

アニメやゲームにこの神社が登場するわけじゃないけど、第二次世界大戦中に存在した

軽巡洋艦『阿武隈』の艦内神社。

そのもとになったのがこの鹿嶋神社なのです。

神様が渡る橋.jpg

雷神、剣の神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)を御祭神として祭り上げられたのが

770年から780年のこと。

811年には坂上田村麻呂が東夷征伐の戦勝を祈願したと言われています。

以降現代に至るまで様々な歴史がある神社ですが海軍関連と言えば1925年に

海軍元帥東郷平八郎が『鹿嶋宮』の額をこの神社に奉納しています。
阿武隈!?.jpg
だるまさんだらけ。

恒例のイタ絵馬探し
あぶ・・・くま?.jpg

く・・・・クオリティー高くね!?
クオリティーたけぇ.jpg

パワースポットもあるし、もしかしたら神社って昔の人のテーマパークだったのかな???
ぱうわーぷりーず.jpg

おみくじも楽しみの一つだよね♪
きんうんだろ.jpg
神社によっていろいろなおみくじがあって楽しいよ(∩ω∩`)




阿武隈の漢字覚えてくれました?・・・・書いてみて?ん”ん”っ!違います!!
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1923年3月16日、浦賀船渠にて誕生した阿武隈は

大正時代に沢山生まれた5500トン級軽巡洋艦のうちの一人

福島県から宮城県を流れる阿武隈川からその名を与えられました。

長良型の六姉妹の末娘。

1930年10月20日 

大演習中に軽巡洋艦『北上』に追突

この為か北上が苦手な阿武隈。

他の姉妹と相違点が多々あり艦首に関してはもっとも見分けやすい特徴である。

ぶつかった後修理したからね。




1941年12月

真珠湾攻撃作戦に参加。空母機動部隊警戒隊に編成され第一水雷戦隊の旗艦として頑張りました。




1942年1月

ビスマルク諸島攻略作戦を支援。ジャワ攻略作戦。インド洋作戦に参加

同年5月

第一水雷戦隊は北方部隊に編入されアッツ島攻略の要を担いました。




1943年3月

キスカ島撤退作戦に参加。アメリカ軍の艦艇に見えるように偽装し、霧と夜の闇にまぎれて

キスカ島に孤立した大勢の命を救出する為出撃しました!

皆、バラバラの出発。高射砲の発射音で位置を知らせながら駆逐艦たちを先導しました!

途中、衝突事故や小島を敵艦だと思って誤射もしたけど取り残された人たちを全員助けることが

出来ました!

ホントに奇跡の作戦。

最後に軍医の先生がイタズラで兵舎の前に『ペスト患者収容所』の看板を立ててました。

敵の上陸部隊・・・・びっくりしただろうなぁ。

同年4月 11月 

まあ、あたし的に気に入っていたんですけど、主砲を換装しました、はい!




1944年 

航空兵装をおろして沢山の対空機銃を載せました!




1944年10月25日

闇に乗じて第二遊撃部隊第一水雷戦隊旗艦として突入したスリガオ海峡。
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敵魚雷艇群の攻撃を受け、艦首第一砲塔の下に被弾し大勢の犠牲を出しました。

速力が低下したので旗艦を駆逐艦『霞』に譲り、駆逐艦『潮』と共に戦線を離脱しました。




そして運命の日

10月26日

夜明け。

明るくなると敵の飛行機が何度も襲ってきました。

けど、あらかじめ沢山載せていた対空機銃で応戦してなんとか追い払うことが出来ました。

ミンダナオ島ダピタンで応急修理。

そのあとも潮に付き添われコロンへ向かう事に。

けど、またあの音が迫ってくる。

低く空気を振動させるプロペラの音が。

B-24爆撃機が対空兵装の射程外から爆弾を落としてきた。

最初は高高度からの攻撃。

次は低空からの爆撃。

直撃弾3発、至近弾4発を受けて甲板上で戦っていた人たちは全滅。

艦橋でも大勢の戦死者、負傷者が出ました。

火災が発生し、機関は停止。

もう海に浮いているのがやっとの状態になった時、次のターゲットが潮に移りました。

絶望的な状況の中、必死に応急修理をしていたけれど、火災により魚雷発射管の魚雷が爆発。

船体に亀裂が入り重油が流出。

ダメージコントロールの限界を超えたところで総員退艦命令が下り、生存者は潮に救助された。

阿武隈は後部から3時間かけゆっくりと沈没していった。
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艦これ 終焉の地探訪 [聖地巡礼]

2017年1月

瀬戸の音戸周辺で車中泊をしてました。
.
雪の予報は見事に的中してさむぅい一日になるよ(TwTlll)
若桜はらり・・・・りさ。.jpg
あの山の向こう側に戦艦伊勢が身を潜めていた場所があります。

解るかな?高圧電線の塔の向こう側なんだけど・・・・

山を回り込んだ海がここ。

多分この辺りに戦艦伊勢が・・・・
多分この辺りに伊勢が.jpg


伊勢呉2.jpg



時は1944年10月

南方資源を護る為、フィリピンレイテ島へと突入した日本海軍。

残存する艦艇の総力を結集するも航空戦力の乏しい日本は並居る連合艦隊に大敗を喫す。

燃料の確保はおろか輸送路さえ断たれ、国家の存亡はもはや風前の燈火となった。
East_Asia_1940.jpg

レイテ突入で生き延びた艦の一部は敵の追っ手を振り切り命からがら広島県江田島、呉の海へと

隠れるように停泊した。
レイテ後各艦の配置図りさ.jpg
レイテ後の各艦の配置図。

燃料はなく、ただ打たれる身を両手で守るだけの浮砲台。

沢山恐い思いをしても尚、献身的に国に尽くして戦った者たちの終焉の地をここから巡って

行きます。

高鳥砲台跡
10秒ダッシュ。こけなくて良かったりさ.jpg
海軍の施設だったんだって。

対岸のループ橋はバイクで来たかったぜぇ!
バイクで来たいぐるぐるループりさ.jpg

せまぁい海峡を渡り切り先ず向かったのが『コンクリート船』
コンクリート船の防波堤りさ.jpg
コンクリートを運ぶ船じゃなくて、コンクリートで出来た船で曳航(えいこう)されて

運用してたんだって。

わかる?電柱と電柱の間の奴。

僕も初めて見つけたときは『は?これが?』ってかんじやったよ(笑)

この船、きっといろいろな物資を積んでいたんだろうね!

日本以外の資源の乏しい国でもコンクリート船が使われていたらしい。

今では堤防として有効活用されてるねぇ。

歴史の生き証人だよ。

ここはさらっと流して次はたまたま見つけた軽巡洋艦大淀の慰霊碑

何かありそうなところだなぁと思ってたら、道路沿いに小さな看板を見つけたんョ(´∧ω∧`*)
超偶然に発見りさ.jpg
我ながらよく気が付いたと思うけど、バイクに乗ってる時は車の3倍勘が働きます。

ん!?浮砂があるかも!!とか。(ライダーあるある)

でも、その勘が鋭すぎてホントにこっちかよΣ(゚Д゚;)

って、自分を疑う時があります。
DSC_0910.JPG
こえぇよ!せめぇよ!なんかあったらフルバックだよ!

ビビりながらそろーっと行ったらあった!!
駐車場せまりさ.jpg
軽巡洋艦大淀の慰霊碑!!

先客のご夫婦が狭い駐車場を譲ってくれたのでありがたく停めさせていただきます(´∧ω∧`*)

模型。ちょっとかわいいりさ.jpg

瀬戸は今。とても美しく平和です。有難うございます。.jpg

ゲームでは任務の説明やイベント作戦前に登場する大淀さん。
kan-21102_p0.png
かつて連合艦隊の旗艦を務めたこともあるんだって。

軽巡洋艦が?って思うけど、大戦末期。強力な艦艇を旗艦にして遊ばせておくことが出来なかったので

大淀が抜擢されたとか。

艦隊旗艦大淀.jpg

そして運命の日

1945年7月24、28の空襲で火災が発生。
大淀空襲.jpg
兵隊さんと共に近隣の住民が消火活動や負傷者の搬送に尽力するも虚しく、

大淀は力を使い果たしたかのように転覆。
Oyodo_cruiser_capsized_19452.jpg

倒れて動けない大淀に米軍機は周到に爆弾を投下する。

海面に流れる機械油がまるで血のよう・・・・

写真をよく見ると田んぼ?のような陸地にも爆弾が落ちた跡がある。

勝手な想像だけど、米軍機のパイロットだって、もう大戦末期なんだから沢山の経験をつんで

熟練の技を持ってると思うんョね。

そんなパイロットが動けない大きな的を相手に爆弾を外すはずがないから、

きっと、大淀は一生懸命戦ったんだと思う。

近くで銃弾が跳ね、目の前で爆弾が炸裂しても、ずっと引き金から指を離さなかったんだろうね。

瀬戸内は今、とても静かでキラキラしてるよ。ありがとう。



さて、大淀の慰霊碑に手を合わせた後は軍艦利根資料館へ足を延ばしました。
軍艦利根資料館りさ.jpg

こんにちはぁ(´∧ω∧`*)利根ねぇさんゆきが会いに来たよぉ♪

お!?

ねぇさんやけど、ねぇさんやない???
利根姉さ・・・・ん!?.JPG
兵姫ストライクっていうスマホアプリのゲームらしい。

なんでも江田島を巡ってあそぶらしいけど・・・・江田島かなり広いよ?

で、艦これの利根ねぇさんはこちら
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利根型1番艦利根重巡洋艦から航空巡洋艦に改装されカタパルトで次々と水上機を射出!

主砲は前方へ集中配備。
img_0.jpg
大淀といい、利根といい現代のヘリ搭載型護衛艦を思わせるような構造となっていて

時代の最先端を行った構想となっています。

館内には様々な遺品が保存されています。
図面りさ.jpg

姉さんの風呂りさ!!.jpg
可愛いバスタブ。

ちゃんと金属製で立派。

利根もまた史上最大の海戦に参加した艦である。

南方から帰還後、舞鶴で修理を受け、練習艦に指定されたため海軍兵学校が近い呉へとやって来た。

所が1945年3月19日

アメリカ第58任務部隊の空襲により至近弾1発を受ける。

7月24日28日の空襲によりさらにダメージを負った利根は大破着底してしまう。
1945年7月24日呉爆撃を受ける利根.jpg

写真をよく見ると、利根の主砲は海側へ向いていることが分かります。

まるで陸地にぽつんとある小さな集落を護ろうとしているかのように見える。

航跡がないことからここを最後の決戦の場所にしたんやろうね。
1945年7月利根着底.jpg

ちなみにここでも大淀の記念碑で出会ったご夫婦と再会しました。

『たぶん来ると思ってたよぉ』

って声を掛けて頂きましたが、お互いなんだかしんみりするスポットめぐりですねぇp(´⌒`q)




さてさてお次の終焉の地が戦艦榛名のはずなんだけど
榛な????.jpg
ん??榛名?

ここにも兵姫ストライクの何かのポイントになっているようですよ!

艦これの榛名はこちらです
975e81fe.jpg
金剛型3番艦の榛名は建造後26年の老朽艦でありながら多数の海戦に参加。

数々の戦果を挙げた武勲艦です。

いや、おばぁちゃんなんて一言も・・・・




色々な出会い別れがある港.jpg

とても静かに降り続く.jpg

まさにこの場所で過去に海と空を舞台にした激闘が繰り広げられていたなんて考えられません。
Japanese_battleship_Haruna_attacked.jpg

小用海岸には榛名の他にも練習艦出雲が錨泊されていた。

海が見える小高い丘には榛名と出雲の共同慰霊碑が建てられています。
榛名戦没者慰霊碑.jpg

彼女もまた燃料がない所を1945年7月24日28日の呉港空襲で大破着底しています。

とはいえ、増設されていた高角砲や機銃は陸上防衛の為に取り外されてしまっての戦い。

主砲による三式弾発射など使える限りの武器を使い、戦艦の底力を見せた激しい抵抗。
41dd9b54.jpg
ボロボロに傷ついても前部主砲と一部の対空兵装はまだ使用で来たそうです。

終戦後、榛名は解体されました。

着るものも食べる物も無い時代に榛名は

戦後復興の糧となりました。




まだまだ続く終焉の地めぐり。

次は二人まとめてご紹介。

戦艦伊勢
ise.jpg
伊勢は冒頭でも少し触れたねぇ。

もう一人は戦艦日向
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伊勢型一番艦とその二番艦です。

大戦後半で航空戦艦に改装され両艦とも22機の航空機を射出する

世界的に珍しい戦艦となっています。
1943年8月伊予灘伊勢.jpg

1918年日向.jpg

伊勢、日向姉妹もまた燃料不足とアメリカ軍の機雷封鎖で行動不能になり

坪井沖と情島沖に予備艦(浮き砲台)に指定された。

1945年7月24日
1945年3月呉空襲爆炎対空砲火が空を覆う.jpg
写真は同年3月

呉軍港空襲で伊勢は艦橋に直撃弾を受ける。
hyuga under air attack.jpg
奥に伊勢が見える

時を同じくして日向もまた波の様に攻撃を仕掛けてくる敵機と戦っていた。

姉妹同士手を伸ばせば届きそうな距離にいる。

目と目を合わせ声が掛けられそうな位に近くにいる。

けれどそれは出来ない。

補給路を断たれ機雷が敷き詰められたこの海を自由に駆ける事は、二度とない。

日向大破着底.jpg

日向 大破着底.jpg
上二枚は日向

26日
1機でも多くの敵を道連れに。

呉軍港空襲950機という途方も無い航空機の群れに奮戦した日向の甲板は、

血も涙も共に海の波に洗われるのでありました。

28日

11発もの直撃弾を受けた伊勢は燃えながら最大仰角まで突き上げた主砲を放った。

それは断末の叫びに様に聞こえただろう。

かなり探して見つけた碑
やっと見つけた!!りさ!!.jpg

姉妹.jpg
単艦で人知れずひっそりと艦歴を終える者もあれば、姉妹同じ場所でその物語に幕を下ろす者もいる。

胸が締め付けられそうだよ。



最後はこの子!

『ども、恐縮です、青葉ですぅ!一言お願いします!』
anime_wallpaper_Kantai_Collection_3455499-47003587_p0.png
アクティブ青葉です!

艦これではパパラッチっぽいキャラクターなのですが多分、従軍作家の海野十三氏が

乗り込んでいた経緯を反映しているのかもしれません。

aoba改装後.jpg
いつも思うのがライン入りの煙突が水兵さんの帽子みたいで可愛いなぁって☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

そんな可愛い防止の彼女もレイテで大破し、同じ重巡洋艦の熊野助けられず、

内地に帰り着いた艦なのです。

呉海軍工廠の近くに停泊して修理を待つ青葉。

けれども修理の見込みが立たず、防空砲台と化す。

既に手負いの状態の青葉はやはり航空機の攻撃に耐えられる程の余力なく

命中弾5 至近弾1を受けて艦尾が切断され着底した。
青葉.jpg

青葉終焉.jpg
戦いに敗れ、僚艦を救えず、希望を持って帰ってきた先で修理も受けられないままだった青葉

その時、彼女が見上げた空は痛いくらいに眩しかった事だと思います。




僕がこの足で立った場所に岩をも砕く弾丸が刺さり、天を貫かんばかりの水柱が上がった。

桜が散り雪が舞う毎に時間が流れていくけれど、彼女達のことを少しでも多くの人に知って貰えたら

と思います。

拙いリサーチですが長文にお付き合い頂き、有難うございました(๑╹ω╹๑ )






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大和ミュージアムへ [聖地巡礼]

2017年1月

潜っちゃう系りさ5.jpg

潜っちゃう系がやたらと目立つ街にやってきました。

広島県呉市。

1903年から帝国海軍工廠が設置され東洋一の軍港として栄え、

卓越した造船技術は現在の様々な工業に受け継がれています。




技術の粋が結集された呉海軍工廠。
大和の甲板全力ダッシュする?りさ528.jpg
温暖で穏やかな瀬戸内で生まれた世界最高の戦艦大和

大和波止場では左1/4の甲板の広さを体感できます。

ライダーは先っちょ好き。
波止場の先っちょりさ40.jpg

大和波止場からは停泊する艦艇を見ることが出来ます。
練習艦かしま.jpg
練習艦かしま。

今も昔もかしまは練習艦なのかぁ。

呉に来たらぜひ立ち寄りたい大和ミュージアム。
十分の一大和68.jpg
1/10サイズの大和でも沖合で漁ができそうな大きさ。

九一式徹甲弾と三式弾はゲームでよくお世話になっています。
お世話になっています!5.jpg
こんなでっかい物をどうやって大砲に突っ込んでたんだろ???

最強の名を欲しいままにしたゼロ戦。

最初期に登場してから太平洋戦争突入まで空の覇者であったため、

機体の欠点が露呈することないまま、アクタンゼロによりアメリカは対ゼロ戦の戦術を

練ることが出来た。
俺のバイクと同じエンジン・・・・嘘つきましたりさ2.jpg




様々な展示がある大和ミュージアム。
むっちゃんは俺の嫁だぉりさ5.jpg
模型は長門型戦艦陸奥。

長門と陸奥が太平洋に睨みを利かせていれば、アメリカは襲ってこない!

と、広く国民が口にし帝国海軍の象徴だった戦艦。

世界のビックセブン陸奥は昼夜を問わず建造された。



館内をじっくり見学していたのですが膨大な資料にちょっとお疲れ。

大和ミュージアムは500円で見学できるうえ、当日に限りますが何度も入館可能。

よって、食事に出かけます。




ち・・・・ちょっと入りづらくね?
ちょっと勇気がいるりさ16.jpg
でも、この先ホントに大丈夫!?って感じが大好き。

大和ミュージアムの近くにハイカラ食堂があったので、潜入捜査いたします!
ハイカラ食堂りさ0602.jpg

映画『男たちの大和』で使用された三連装機銃が展示されてました!!ビックリ!!
弾倉がない25㎜三連装機銃りさ.jpg

店内は潜水艦の艦内をモチーフにしており、食器にも錨のマークがあって

海軍、海自感をいったんリセットしなくていいので一日この世界にどっぷり浸れます。
店内は艦内風りさ.jpg

潜水艦そうりゅうのレシピを元に造られたカレーも捨てがたかったのですが、

海軍らしい戦艦霧島のカツレツをチョイス。

柔らかくっておいしかったよぉ。
霧島のカツレツりさ.jpg
店員さんの制服も海自っぽくってカッコいい!

もう一度館内に戻って出てきた頃には辺りは真っ暗。
ポセイドンに祈ればおいしい瀬戸内の幸にもありつけるリサ4.jpg

右、訓練支援艦てんりゅう。左、護衛艦あぶくま
右、訓練支援艦てんりゅう。左、護衛艦あぶくま.jpg
現代では漢字で書かなくてもいいんだぜ阿武隈くん。

この日は、音戸で車中泊。
今夜はこの辺で車中泊りさ8.jpg

音戸の瀬戸は平清盛が拓いたと言われる海峡で瀬戸内銀座と言われる程沢山の船が行き来する。

写真左側に音戸の瀬戸が写り、左側の島が呉本土。
Japanese_battleship_Ise_burning_at_Kure_28_July_1945.jpg
呉海軍工廠から南に位置し、海路では南口となっている。

写真では右側に爆撃を受ける伊勢。

左奥の島影には姉妹艦の日向が写っている。

ちょうど僕が車中泊をしようとしている辺りに海峡付近に浮き放題として停泊中の伊勢が爆撃を

受け大破着底。

伊勢が息絶える瞬間にはなった主砲は帝国海軍最後の大口径砲発射となった。




次回は、艦艇終焉の地を巡り走ります。
タグ:聖地巡礼
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艦これ 加古 聖地巡礼 [聖地巡礼]

重巡洋艦加古ゆかりの川

兵庫県加古川です。
D加古ゆかりの川20 (2).jpg
その川の近くに日岡神社という安産に御利益のある

神社があります。
日岡神社立派な門構えりさ22.jpg

日岡神社お正月の様子りさ0428 (2).jpg
この神社、昔の帝国海軍巡洋艦加古が

その分霊をお祀りしていたんですよ。
拝殿へりさ (2).jpg

レッツ禊りさ2).jpg

イタ絵馬も嬉しいけどこう言うのが一番うれしい。
波間りさ2).jpg



古鷹型重巡洋艦の次女 加古
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ゲームの加古は改二まで改装することができて

改装前とは各種アビリティーもキャラクターの外見も

大きく変わります。

でも、お寝坊さんは相変わらずで、面倒くさがり屋な所は

僕そっくりで秘書艦にするにはちょっと……な感じf(^_^;

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誕生日1925年4月10日

当初、川内型軽巡洋艦の4番艦として誕生するはずだった加古。

しかし、ワシントン軍縮会議という大人の事情で重巡洋艦になって誕生。

当時、海軍の慣わしでは重巡洋艦に与えられる名前は山の名前と決まっていたけど

例外的に兵庫県加古川の『加古』という川の名前を授かる。

姉には同型艦の古鷹が。

親戚には古鷹型の設計を踏まえて誕生した青葉型重巡洋艦の

青葉、衣笠が存在する。




太平洋戦争開戦前

日本近海や中国沿岸で訓練、作戦支援に従事し、戦隊の旗艦を務めることがあった。

1936年。軍縮条約、会議の破棄、脱退後1937年まで大規模な近代化改装を受け

立派になる。
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写真は同型艦古鷹

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1940年の紀元二千六百年特別観艦式では姉の古鷹と共に天皇が乗船する御召艦『比叡』の後ろを

護衛する供奉艦(ぐぶかん)の任に就く。
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第一艦隊第六戦隊に古鷹、加古、青葉、衣笠のダブルシスターズが揃い太平洋戦争に突入する。

1941年ウェーク島第二次攻略作戦

1942年南方・ソロモン諸島を転戦。

珊瑚海海戦後、整備の為

加古は青葉と共に呉へ向かった。

整備完了後はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛する第六水雷戦隊を支援した。



1942年8月

一旦はガダルカナルを制した日本軍に再び反攻を仕掛けた米豪連合軍。

ラバウルに向かう途中だった古鷹型と青葉型のダブルシスターズは他の友軍と合流し

夜の闇を利用してガダルカナル島海域に突入。

敵連合艦隊と砲火を交えた。

第一次ソロモン海戦の始まりである。

この戦いで加古は米壕重巡洋艦4隻撃沈に貢献する働きを見せた。

この戦いで無傷だった加古。

戦いは日本帝国海軍の大勝利に終わった。

第六戦隊の4隻はニューギニアへ向かって帰投中であった。

しかし、この動きを米潜水艦が発見。

戦闘航海3日目の朝。

ニューギニア島カビエンの港まであと少しの所。

疲労困憊の各艦は、味方制空権内と言うこともあり

速度を落とし対潜警戒運動を行わず航行中。

至近距離にて雷跡を発見した加古。

回避行動は間に合わず一番砲塔、弾薬庫、缶室へ次々に

命中。

右舷に傾きわずか5分で転覆した。         



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艦これ 比叡 聖地巡礼 [聖地巡礼]

久しぶりの更新です。

皆さんお元気にしていましたか?

新年一発目も『艦隊これくしょん 艦これ』の聖地巡礼です。




滋賀県にある日吉大社。

比叡山の麓。京都の都の鬼門に位置し厄除けを担う神社です。

そのほかにも、夫婦和合、商売繁盛。

そしてなんといっても独身貴族にはありがたぁい縁結びのご利益もございます。

もう、僕の孤独っぷりは神頼みレベル。

女性と言う存在がもはや伝説上の生き物か、はたまた神話に出てくる登場人物なんじゃないかと思えるレベル(白目)

話はそれたけど、日吉大社は紅葉の季節には3000本のもみじが色付き名勝ともなっています。

創建も古く2100年前に遡り、比叡山延暦寺が拓かれてから今日に至るまで護法神(仏法や仏教徒を守護する神様)として崇敬(すうけい)をうけています。

そして、かつて日本海軍の戦艦『比叡』が艦内でお祀りした神様が

こちらの神社にいらっしゃいます。
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あらたまって鳥居をくぐっても減る物は減るんですよね(#^.^#)
参拝前の腹ごしらえりさ05.jpg
近くにはお茶屋さんやお正月の時期だけなのか境内にお店も出ているので助かります。

囚人並みの厳重な檻の中にはお猿さんがいます。
もう囚人並みの厳重な檻りさ96.jpg
神猿と書いて『まさる』と読むらしく『魔が去る』や『勝る』など縁起がいいらしいよ

比叡山にはお猿さんがいっぱいいて、いつしかこうやって拝まれるようになったらしい。

石造りの手水舎だぁ!
手水舎は石造りりさ4.jpg

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西本宮楼門
西本宮りさ1.jpg
ここの屋根を支えるようにお猿さんが彫り込まれています。

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棟持ち猿といって四隅それぞれにポーズの違うお猿さんがいるので探してみてね

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最後に比叡のプロフィールを史実、ゲームで織り交ぜながらご紹介

戦艦比叡
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誕生日1912年11月21日

金剛型4姉妹の次女。

姉の金剛は英国ヴィッカース社で建造されたが、種々の事情により比叡の場合はほとんどの部品を

ヴィッカース社から買い付けて日本で組み上げられた。

その為かゲームでは英国生まれの姉『金剛』と髪の色も瞳の色もそっくり。

戦艦として誕生する予定だったか、海軍軍縮条約にて

練習艦となり沢山の水兵を育てた。




御召艦になる

比叡は昭和天皇を乗せる御召艦になる機会があった。

御召艦になると新造艦同様に補修、清掃するまで2週間を要したという。

レディなんで身だしなみにはとっても気を使うのです。




1936年11月戦艦として復活すべく大改修が行われるが

大和型戦艦建造時にテスト艦として利用するためのものだった
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太平洋戦争 開戦

1941年12月8日
同型艦の四女霧島と共に真珠湾攻撃に参加。空母6隻の護衛を担う。

1942年3月1日
ジャワ島南部からオーストラリア方面へ逃走する手負いの米駆逐艦エドサルを砲撃

太平洋戦争で初めて戦艦が敵艦を撃沈させた。
霧島と共にエドサルに止めを刺す比叡c.jpg
1942年6月5日
運命の戦いミッドウェー海戦に参加。第二艦隊の攻略部隊本隊に加わる。
空母赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を聞きつけ戦域へ急行するも敵艦は退避したあとだった・・・・。

1942年11月12日
第三次ソロモン海戦

ガダルカナル島の戦況が劣勢な中、比叡は闇夜に乗じ敵飛行場を攻撃するつもりだったが

至近距離で敵艦隊に遭遇。待ち伏せ攻撃を喰らう。

探照灯を照射しながら突撃。

その為敵より集中砲火を浴び、砲弾85発。魚雷貫通数本(近距離により不発)火災発生と言う大きな

被害をうける。

戦闘では機銃を使うほどの近距離戦が展開され、本当に軍艦同士の殴り合いの様相を呈した。

1942年11月13日
翌朝まで必死の復旧作業を行うも敵機襲来により修復作業は進まず。

砲身は曲がり、舵の故障で自由に動けない比叡に押し寄せる敵機。

右に左にと爆弾魚雷の雨を降らせ、ガダルカナル島に座礁させ浮き砲台となろうとする比叡に

止めをさす。

彼女の最期は自沈処分でだれにも看取られず海中へ没した。

海面にただ重油の幕だけを遺して。



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艦これ 那智 聖地巡礼 [聖地巡礼]

熊野古道を知っていますか?

そう、あの世界遺産の熊野古道です。

僕は今回、世界遺産を巡りつつ『艦これ』の聖地を訪ねました。

和歌山県那智勝浦町

熊野那智大社

ここに本日のヒロイン

重巡洋艦『那智』がその艦内にお祀りした神様の神社があります。

とはいっても、写真はいきなり別宮の飛瀧神社(ひろうじんじゃ)ですけど
kumanonatitaisya 別宮りさ.jpg

この神社は拝殿も本殿もないちょっと変わった神社で、ご神体が目の前をダイナミックに下る

那智滝(なちのたき)となっています。

なので、お参りする時は直接、滝を拝むことになります。
那智御滝りさ.jpg
この滝の飛沫を浴びると延命長寿のご利益があるらしいですよ。

それでは、艦これ那智の聖地である社殿へ向かってみましょう。

杉林を縫うように石段が続き、平安時代の熊野詣でを肌で感じる事ができる熊野古道。
世界遺産熊野古道りさ.jpg
熊野古道は

大阪から和歌山県田辺へ通じる紀伊路(きいじ)

高野山から熊野三山を結ぶ小辺路(こへち)

同県田辺から熊野三山を結ぶ中辺路(なかへち)

同じく田辺から本州最南端の町、串本。そして熊野三山へと海辺を経由する大辺路(おおへち)

そして最後に伊勢神宮から熊野三山へと通じる伊勢路(いせじ)

と、総延長は600kmに及ぶ長い長い参拝道であります。

けれども、世界遺産に登録されている距離は200kmほど。

ほとんどは生活道だったり隣を車道が走っていたり。

はたまた古道が土の中に埋まり、発掘ができていないなどがあります。

ユネスコの世界遺産に登録されている『道』はフランスとスペインの

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼道と熊野古道の3例しかないので

世界遺産としては非常に珍しいものになります。

長い参道の途中にはお茶屋さんもあるので、境内散策への燃料補給もできます。
参道にはお土産屋さんもあるよ8.jpg

ご当地の那智黒飴ソフトも激しくオススメ!
那智黒飴ソフト!!これおいしいりさ!.jpg
ちょっと不恰好だけど、飾らない素朴さってやつよ

那智山熊野権現りさ6.jpg

鳥居をくぐって手水舎で身を清めましょう。
ぢょぼぼりさ8.jpg
だれかここでバケツを持ってガチの禊(みそぎ)やってみて

僕がちょこっと指先を濡らす程度だったのは、穢れが落ちすぎて僕と言う存在が

消えてしまわない様に。

ここで速攻で拝殿にお参りしてもいいのだけれど、熊野本宮大社、熊野速玉大社にはない所へ

行ってみましょう。

達筆じゃりさ7.jpg

西国一番霊場 那智山青岸渡寺りさ.jpg

お寺です。

神社の境内にお寺?って不思議な感じですよね!

他の二社では明治の神仏分離令の際、仏堂は廃されたのですが熊野那智大社では建物が残され

青岸渡寺として再建されました。

青岸渡寺は西国一番霊場であり霊験あらたかなお寺となっています。

そして、いよいよこちらが重巡洋艦那智の聖地、熊野那智大社です
巨大おみくじりさ!!!4.jpg
聖地巡礼兼三社参りに世界遺産とはなんと贅沢な!!

ちなみに写真左下の女性が抱えている大きな筒。

おみくじでっせ。

冗談みたいにデカいよね!!

奥の方は親子三人でおみくじに挑戦。

微笑ましいお正月の光景です。

それでは熊野那智大社に着いてもう少しだけご紹介。
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熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社と共に熊野三山の一社です。

全国で約4000社ある熊野さんの御本社で御祭神は熊野夫須美大神(くまのむすひのおおかみ)

イザナミノミコトと紹介すれば聞いたことがあるかもしれませんね。

御神徳は人の縁のみならず、様々な願いを結び叶えてくれます。




後はいつもの艦むす&史実艦紹介

重巡洋艦 那智

誕生日 1927年6月15日

妙高四姉妹の次女。

出身は広島県の呉海軍工廠

艦隊きってのハンサムウーマン
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キリリとしていてとても頼もしい存在。

MVP獲得時には『今夜ばかりは飲ませてもらおう』とお酒好き。
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大人な雰囲気の那智だが、提督のスキンシップの反応は

『む?その行為は何だ?何かの戦術行動なのか?』と少々世間ずれ。

多分、提督の必死のアプローチに気が付いてくれないタイプ。




史実の那智

第一次世界大戦以降ワシントン海軍軍縮条約に調印した日本は艦艇の保有数、各艦種の排水量を

制限された。

1万トン以下、搭載できる砲の口径は20cm以下と定められた中で、最強の巡洋艦として誕生した

那智。
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彼女は生まれてすぐに『御大礼特別観艦式』に参加。

また、翌年には昭和天皇が行幸する際の『御召艦』に選ばれるなど栄光ある任務を次々とこなしていきました。




1942年2月27~3月1日に行われたインドネシアのスラバヤ沖海戦

この海戦は資源を求め南進する日本とそれを阻止するアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアのABDA艦隊の

戦いだった。

出撃当初、妙高型2隻での出撃だったが、戦闘が長引いて弾薬の消耗が激しかったため

別働隊で動いていた妙高、足柄を呼びつけ4姉妹そろっての戦いとなった。
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那智率いる艦隊は連合軍艦隊と会敵。

長距離から砲撃、雷撃戦を行うアウトレンジ戦法に固執した日本。

敵艦艇8隻を沈めるものの魚雷の早爆問題が露呈し、更には敵艦を沈めた際に喜んで万歳している

間に残りの敵がみんな逃げてしまったことが失敗。

ともあれ、艦隊は勝利を収めジャワ島を占領することが出来た。



4月11日

那智は北方で活躍する為厚岸(あっけし)に入港。

第五艦隊旗艦となった。

5月26日

アリューシャン作戦の為、大湊を出港。

以後北方海域で作戦行動に着いた。




1943年3月27日

アッツ島への輸送任務中に米軽巡洋艦リッチモンド率いる艦隊と偶然遭遇。

アッツ島沖海戦が始まった。

典型的な昼間水上戦闘は日本艦隊の消極的な戦闘指揮により、致命傷まで追い込んだ

米重巡洋艦ソルトレイクシティを取り逃がしてしまった。




レイテ沖海戦

1944年10月23日~10月25日

日本は大戦当初の勢いを失い満足な戦果をあげられずにいた。

同年6月に行われたマリアナ沖海戦では大鳳、飛鷹、翔鶴などの空母を失い現有の航空戦力は

ほんの一握りの僅かな物であった。

マリアナを手中に収めたアメリカ軍は日本本土、フィリピンが攻撃可能になりいよいよ

戦いに王手がかかった状態になる。

フィリピンを抑えられれば天然ガス、石油、ゴムなどの資源を本土へ輸送できなくなる。

本土防衛はもちろんのこと、フィリピン陥落は日本にとって死そのものであった。

この窮地を脱する為、日本海軍は総力を揚げレイテ突入の作戦を遂行。

残存する空母を囮とし、水上打撃部隊で敵輸送船団、陸上部隊、物資の撃滅を狙ったのだ。

その史上最大の海戦に本日のヒロイン、那智の姿もあった。


10月25日午前3時

漆黒の海に轟音と閃光が瞬いた。
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スリガオ海峡は燃えていた。

多数の艦艇が紅蓮の炎をまとい、沈みかけている。

その光景を視認した那智は歓喜に沸いた。

先にこの海峡に到達した西村艦隊が米海軍を蹴散らしたのだ!!

しかし、歓声も絶望の声音へと変わるのに時間がかからなかった。

燃えながら半分に折れ沈みかける巨大な戦艦・・・・それは扶桑だった。

西村艦隊旗艦山城もまた炎を上げその巨体を横にしたまま海へと引きずり込まれようとしていた。

辛うじて海上に浮いているが大破炎上しているのは重巡洋艦最上と駆逐艦朝雲。

駆逐艦時雨は中破。舵を損傷し修理しながら退避中。

那智は自分の後に続けと伝えるが時雨からは舵故障中と返信があり、単艦で退避していった。

その光景を前に那智は妹の足柄共々、言いようのない不安に駆られていった。



西村艦隊に健在艦は一隻もない。



那智は停止し炎上中の最上の前を通ろうとした。

実は最上は微速前進しており衝突。

最上の被害は軽微だったが、那智は艦首を破損。最大速力が低下する。

この衝突事故が原因で、那智率いる志摩艦隊は戦場を離脱。



悪夢のような夜は明けた。

最上は駆逐艦曙が護衛につき退避していたがアメリカの水上艦艇、艦載機、基地航空隊から

反復攻撃を受け25日、午後1時に。

志摩艦隊の阿武隈も26日に沈没。

マニラを目指して退避する志摩艦隊。

退避中に負傷し、瀕死の状態だった栗田艦隊の重巡洋艦熊野を発見し、妹の足柄と駆逐艦霞を

救援に向かわせた。

14時

那智、駆逐艦不知火はコロン湾に入港

足柄、霞は16時28分に重症の熊野を救助し港にたどり着いた。

入れ替わりに不知火は僚艦救援の為出撃。

捜索中に空襲を受け撃沈された。







那智の最期
レイテ沖海戦の敗北後、第五艦隊所属艦はマニラを拠点に敵制空権下での輸送任務に従事することになる

マニラ湾には潜水艦の雷撃で大破した重巡洋艦青葉の姿もあった。

10月28日には重巡洋艦熊野、駆逐艦沖波も入港

10月29日 マニラはアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け那智をはじめ、

熊野、青葉も標的となってしまった。

この空襲で那智は飛行甲板に小型爆弾が命中。

魚雷二本に誘爆。那智は被害を受けた。

この状況を受け、熊野は台湾への退避準備を開始。

10月31日レイテ沖海戦に参加したのち、奄美大島に停泊していた軽巡大淀と

駆逐艦若月がマニラに到着。

11月1日那智の水上偵察機がセミララ島に座礁した駆逐艦早霜を発見。

不知火の最後の情報を得た。

11月5日早朝

熊野、青葉は輸送船団と合流。アメリカ軍機数十機を認める。

大淀はマニラ湾を発ちボルネオ島へ向かっていた。

その頃、マニラでは那智以下多数の艦艇がアメリカ軍機の空襲を受けていた。
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猛攻を避けるべくマニラ港を脱出した那智だったが

今度は米空母レキシントンからの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷が命中。

やがて、船体は二つにへし折れ海中へ没した。

妙高型重巡洋艦4姉妹で最初に倒れた那智。
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誕生以来、輝かしい任務につき北方海域でも、南方の作戦でも旗艦を務めてきた那智。

彼女の性能は世界有数の物であったが指揮官に恵まれなかった生涯であった。




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艦これ 熊野 聖地巡礼 [聖地巡礼]

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駐車場で寝ている間に年が明けて、2017年になってしまいました( ゚Д゚)

カ・・・・カウントダウン楽しみだったのに(இдஇ; )

泣いても笑っても新しい年はやってくる!

初詣に『艦これ』熊野の聖地巡礼!!

熊野本宮大社

贅沢じゃないですか∩(´∀`∩)∩( ´∀` )∩(∩´∀`)∩

それでは、いつもの様に神社と実在した軍艦熊野。そしてゲームでの重巡熊野にスポットライトを

当てていきましょう(*ゝωб*)b




まず熊野本宮大社に着いて驚くのがコレ!
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日本一の大鳥居『大斎原』(おおゆのはら)

ここにかつての熊野本宮大社があり、江戸時代まで参拝者は歩いて川を渡りお参りするのが

しきたりでした。

川へ入ることがお浄めの意味だったんだろうね。

明治時代の水害で社殿の多くが流され、現在の位置に遷座されました。

なので、大斎原(おおゆのはら)も神聖なパワースポットなのですよ。




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初詣と聖地巡礼もかねて巡って行きましょう。

本殿へ繋がる石段の両脇には杉林があり、参拝者を悠久の時へと誘います。

熊野本宮大社の創建は今から2000年前。

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『伊勢へ七度、熊野へ三度』と言われる程、人々の信仰を集め

昔の天皇から一般庶民まで階級問わずお参りが出来たそうです。

さすが正月!
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帰りに破魔矢を買ってこー(#^.^#)
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やっぱ初詣っていったらコレだよねぇ(´∧ω∧`*)
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めちゃくちゃあたたかくて、しばらくここから動きませんでしたヾ(-`ω´-o)ゝ。+゚

あぁ甘酒のみてぇ。

神門もお正月仕様で豪華になってます!
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門を潜れば檜皮葺の立派な社殿が現れます
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向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。

中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)

そして右手は私たちの総氏神、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。




御利益は

交通安全ね、豊漁ゲットだぜ、家庭円満、夫婦が仲良くするよ、長生きさせるぜ

の4種類。

でも、神様だからきっとなんでもお願いを聞いてくれるはず(´∧ω∧`*)




祭殿???16.jpg
こっちは祭殿かな?

このポストは社務所で八咫烏ポスト絵馬を買って郵送先にメッセージを書くと

熊野本宮大社のスタンプが押されて届くんだって!
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ちなみに、八咫烏の八咫は大きく広いという意味なのだそうです。

八咫烏は太陽の化身で熊野本宮大社の主神、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)のお仕えで

日本を統一した神武天皇を大和(奈良)の橿原(かしはら)へ導いたという神武東征の故事に習い、

導きの神として篤い信仰があります。

三本の足の意味は、天(神)地(大地、自然)人(私たち人間)を意味し

太陽のもとに、私たち人間は自然や神様から血を分けてもらった存在というものを示しています。

今年一年の神様からのお告げはこちら!
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良い事あるといいなぁ∩(´∀`∩)∩( ´∀` )∩(∩´∀`)∩

最期は可愛い巫女さんから破魔矢をもらって、冷え切った体を温めに行くよ(´∧ω∧`*)
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お正月限定で夜中までやってるんだろうね!

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カフェラテとくまみつカステラをいただきました♪ヽ(*´∀`)ノ

他にも沢山のお土産があるので記念に買って帰るといいと思うよ!




さて、最後になったけど、ゲームでの熊野と史実の重巡洋艦である熊野をご紹介。

ぶっちゃけ・・・・なっげぇぇぞぉ(סיםיס)!!


重巡洋艦・熊野

誕生日:1936年10月15日

出身:神戸(川崎重工神戸造船所)

神戸生まれのオシャレな重巡と言えば・・・・

『とぉぉ↑おう↓』
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『ごきげんよう、わたくしが重巡、熊野ですわ!』

最上、三隈、鈴谷の姉を持つ末娘『熊野』

姉の最上、三隈と少しだけ構造が違う事から最上型と一括りにされることもあれば、

最上型、鈴谷型とわけられることもあります。

ゲームでも鈴谷と熊野の制服はブラウンを基調としたブレザーで同じものになっています。



性格はやっぱりオシャレなお嬢様

入渠はお風呂もいいけれど、やっぱり全身エステフルコース!

ランチは昭和の時代には珍しかったであろうサンドイッチと上流階級の香り漂う熊野さん。

もちろんお洋服にもこだわりがあります!

『あまり下品な兵装は嫌よ?』

と、提督が装備欄を戦闘糧食のおにぎりで満たそうとすると、拒否られます。
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ホントは好きなくせにぃヾ(-`ω´-o)ゝ。+゚

時々食べながらお話をするというちょっぴりはしたない癖もある所はご愛嬌

食欲には勝てなかったんだな・・・・




ここからは重巡洋艦『熊野』の有名な実話を熊野の長い航海と題してご紹介!




時は太平洋戦争末期の1944年10月23日

日本、アメリカとオーストラリア連合軍による海戦が始まった。

後に史上最大の海戦と呼ばれるレイテ沖海戦だ。

フィリピン及びその周辺海域で行われたこの戦いは、アメリカ軍の進攻を阻止すべく

日本海軍は大量の戦力を投入した。

もちろんアメリカ、オーストラリア側もレイテ島奪還の為、持ちうる海軍力の大半を

この海域に集結させた。

力と力がぶつかり合う渦中に本日のヒロイン『熊野』も奮戦していた・・・・
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(写真は同型艦 鈴谷)



10月25日午前7時18分

レイテ島へと猛進する熊野の前に敵護衛空母部隊が現れた!!

狙うは敵空母!

一捻りで黙らせてやりますわ!砲雷撃戦!撃てぇぇっ!!

熊野は米護衛空母へ一直線に突進していく。

敵艦隊は煙幕を張り回避行動を行うと同時にアベンジャー雷撃機を繰り出し、銃爆撃を開始する。

標的へと一気に距離を詰める熊野。すると突然、煙幕の切れ間から

駆逐艦ジョンストンが見えた!!

その刹那
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10本放たれた魚雷が微かな雷跡を引きながら熊野に迫り、1本が艦首に命中!

この1発が後々熊野を苦しめる事になる。





わたくしが被弾なんて・・・・ありえませんわ

艦首の破損により速力が出ず艦隊から落伍。コロン湾への退避を始める。

速力12ノット・・・・これではレイテ突入なんてできませんわ・・・・。

同日正午頃

飛行機の音?

あれは、見方機の瑞雲ですわ!きっと護衛が来て下さったのよ!おぉぉい!

返事の代わりに瑞雲からは強烈な攻撃が熊野に返ってきた。

きゃぁっ! な、何をするんですの!?

この頃、近隣の海域では敵艦と誤認した見方機が攻撃を仕掛けてくることが多々あった。




17時15分
サンベルナルジノ海峡で艦載機の攻撃を受ける。

至近弾・・・・左舷缶室に浸水・・・・でも、まだ何とか動けますわ!




10月26日午前8時10分

敵機接近!!対空戦闘っ!

熊野の対空機銃が火を噴くが、陽の光を背に受けた急降下爆撃機が1発、

また1発と爆弾を投下していく。

艦橋左舷に被弾!

煙突付近に3発命中!

右舷缶室にも被害が

!速力は・・・・2ノット!!

くぅぅっ。何とか敵機は追い払えたものの機銃が全滅。

立っているのがやっと・・・・絶体絶命ですわ。

今頃敵はわたくしの事を沈んだものとお思いでしょうね・・・・。

水上電探に反応!?艦影2。こちらに向かってきてますわ!

このタイミングで!?

とうとう年貢の納め時ですわ。でも、重巡熊野!タダではやられませんわっ!



この時、同じく撤退を余儀なくされた第二遊撃部隊の志摩提督は熊野の危機を知り

掌握する4艦の内、重巡洋艦『足柄』と駆逐艦『霞』を熊野の救援に向かわせたのだった。

窮地を脱した熊野は応急修理により10ノットまで出せるように回復、途中3度の空襲を受けながらも

足柄、霞の活躍と回避行動を繰り返すことで被害を受けずにコロンへ向かった。

同日18時30分

どうにかコロン湾に到着しましたわ・・・・

あら、足柄さん。あそこにお姉さんの那智さんが入港していますわよ。

先の戦いで負傷しているようですわ。

駆逐艦の沖波さんもわたくしの護衛の為、駆けつけてくれたのですね。

燃料補給も終えて、何とか一息つけそうですわ。

次の命令?

マニラを経て日本本土で大規模修理。

レイテ沖海戦はわたくしたちの惨敗。護衛艦なんて出せない状況下での本土帰還・・・・。

内地に帰る方法を何とか工面するしかありませんわね。なんとか・・・・。


10月27日5時頃
単艦にてコロン湾を出港。

コロンの横の西水道・・・・ここはとても狭くて回避運動にはむかない所ですわ。

月が沈む前にこの海域を突破しないと、敵がどこに潜んでいるかわからなくなってしまいますわ!

行きますわよ!沖波さん!

マニラには特務艦の『隠戸』さんがいらっしゃいましたわね。

早く修理して頂きたいですわ。



10月28日7時30分

マニラ到着。

沖波さん。わたくしをここまで守ってくださってありがとう。

『隠戸』による艦首、機関部の応急処置を受けた熊野



10月29日
空を揺るがす轟音が彼方から聞こえてきた。

黒い雲がこちらに向かってやってくる。

生者の魂を刈る大きな鎌を担いで。

290機余の大編隊を組んだアメリカ軍機がマニラを空襲。

熊野、青葉、那智の重巡洋艦は直ちに対空戦闘を開始した。

おちおち入院もできませんわね!何度も何度も煩い蝿のようですわ!

それにしても、こんなにも航空機との近接戦闘が続くなんて。

機銃弾の残りも怪しくなってきましたわね。


11月1日
「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし。」

ん~まっ!!なんて適当な命令ですの!?言われなくったって、絶対日本に帰りますわよっ!!!

このままマニラに居てもやがて連合軍がここを占領しにやってきますわ。



11月4日
速力18ノット可能。

最大速度の半分くらいのスピードしか出せませんけれど、しかたないですわね

運の良い事に他の船団がやってきましたわ♪

わたくしと青葉を船団に混ぜてくださいまし!

え?明日出航?青葉、早く出発の準備を!わたくしも急がなくちゃ!!

ところで青葉さん?あなた、レイテ突入前に負傷してマニラでお留守番をされてましたわよねぇ?

恥を忍んでお頼みしますけれど、わたくしに機銃弾を少し分けて下さらないかしら?


11月5日1時00分
重巡青葉と共にマニラを出港、マタ31船団と合同。

皆さん、おはようございます。船団の指揮はわたくし、重巡熊野が承りましてよ。

速力は8ノットでマニラ西岸のギリギリを沿って北上しますわ。付いていらっしゃい。


18時30分
ルソン島のサンタクルーズに到着。

気味が悪いくらい穏やかな航海でしたわね。

今夜はこのサンタクルーズで一泊して体を休めましょう。

出航は明日の朝。

ここからは、魔のバシー海峡を進みますわ。

魔のバシー海峡・・・・またの名を輸送船の墓場・・・・日本の将兵10万の魂が眠る海峡。

奇しくもわたくしたちと合流したのは輸送船団。

絶対に。絶対にここを突破して約束の地に帰りますわ!



11月6日7時00分
サンタクルーズを出港。

皆さん!ここからは御存じの通り、魔のバシー海峡ですわ!でも、あわてないで!

このままルソン島西岸のギリギリを北上しますわよ!

そうすれば沖に向いた左舷だけの対潜警戒をしていれば、なんとかこの海峡を脱出できますわ!

岸沿いでも水深が深い海峡なので、絶対に岸から離れないで下さいまし!!

おそらく敵はこの海峡で撤退するわたくしたちを狙って網を張っているはず。

仕掛けてくるならココですわ。

駆潜艇第二三号を先頭に!!

左舷を残り4隻の駆潜艇で警戒してくださいましっ!!

輸送船のみなさんは中央へ!

右舷はわたくしと青葉が警戒に当たりますわ!!


9時20分
左舷中部から正横約100 m海面に大爆音とともに巨大な水柱が上がった。

間髪入れず右後方約3000 mの陸岸に水柱が上がる。

雷撃ですわっ!!(ギターロより)

各艦、対潜戦闘!!爆雷投下用意!!

いい?絶対に岸から離れないで!

敵はどこ!?何隻ですの!?



船団はリンガエン湾西方でアメリカ軍の潜水艦ブリーム・ギターロ・レイトン・レイの4隻の

攻撃を受けた。


9時55分
あれは!潜望鏡(ブリーム)ですわ!

左舷より雷跡4!!

取り舵で回避っ!!

くっ!早く岸側に戻って!


10時40分
青葉!あなたも狙われてますわよ!あなたの目の前に潜望鏡が!


10時42分
潜望鏡!(レイトン)、左舷より雷跡6!!

取舵で回避ですわ!、爆雷投下!これでも食らいなさい!



10時48分
右舷至近距離で魚雷4本接近!?(レイより)

しまった!回り込まれましたの!?

避けきれない!


レイの放った魚雷はレイテで損傷した艦首を再度吹き飛ばし、もう1本は右舷機械室附近に命中

右舷のバルジに幅5m、長さ10mの破孔が生じ1番機械室と隔壁を破壊

2番、3番、4番機械室すべてに浸水し熊野は航行不能に陥る。

やがて傾き始める熊野。


一方、熊野へ向けて4発の魚雷を発射したレイは潜航退避。

1時間後に浮上するとそこには停止した熊野とタンカーの姿があった。

止めを刺そうとするレイであったが、海中の峰に座礁し、浸水。

運よく生きながらえた熊野であったが、完全に機関を停止してしまった彼女が出来ることは

各所で進行する浸水を食い止め少しでも生きながらえる事だった。



11時00分
青葉は『われ曳航能力なし』と信号し、船団に続行した。

青葉乗組員は帽子を振って別れを告げたという。


青葉・・・・悔しいけれど、あなただけでも無事内地に帰れると、わたくしも本望ですわ。

けれど、『お先に失礼』は余計ですわよ・・・・。


航行不能に追い詰められた熊野の側には貨物船の道了丸(日本郵船、2,274トン)と

400トン程度の駆潜艇2隻が残された。



11時30分
右傾斜8度に減少。

道了丸さん。無理を承知でお願いします。わたくしをどこか近くの港まで曳航(えいこう)して

くださるかしら?わたくしはなんとしてでも日本に帰らなくてはなりませんの。

どうかおねがい。

しかし、道了丸には聞き入れられない打診だった。

なぜなら、浸水した熊野との重量差は1万トン以上。

引っ張るなんて無理だ。


午後になり道了丸に再度打診し、リンガエン湾まで曳航することとなる。


14時25分
応急処置に成功、右傾斜11度で安定。

曳航作業進まず。

18時30分
右傾斜4度。

20時00分
道了丸による曳航成功。


11月7日7時00分
向い潮により道了丸による曳航前進困難、苦労しながらサンタクルーズへ向かう。

速力1.5ノット。まるで子供が歩く速度ですわね・・・・。

歩く速度・・・・か・・・・。もう一度見たいですわね。神戸の夜景。春の桜。

最上、三隈、鈴谷・・・・あなたたちが浮かべるその笑顔が。

16時20分
サンタクルーズ到着。

艦首部喪失のため、後甲板に搭載していた1.5トン錨を艦尾から投入して固定。


11月8日
道了丸、サンフェルナンドへ向け出港。

有難う道了丸。わたくし、命は欲しくありませんの。悔いなく戦えれば・・・・

それで誰かが悲しむ結果になっても。

けれど、いつか。いつの日にか時間がその人を優しく癒してくれますわ。

だから、今だけはどんなに惨めな姿になっても日本に帰らなくてはなりませんの。


第21掃海艇はサンタクルーズ到着、熊野警戒任務に就く。

11月9日
台風による暴風雨で走錨、座礁の危機があったが代用錨と掃海艇の協力により、急場をしのぐ。

きゃぁぁぁっ!!

そのロープ!しっかり持っててくださいまし!!

このままでは風に流されて座礁してしまいますわ!!!

台風の上陸で暴風雨に煽られる熊野。

艦首喪失の為、5.5トンの錨2つを失い、熊野の警備を任ぜられた掃海艇にロープを渡していたが

掃海艇もろとも走錨。

運よくホーズパイプに結んでいたロープが海底に引っ掛かり難を逃れることが出来た。

な・・・・なんとか台風をやり過ごすことが出来ましたわ。

少し沖に流されてしまいましたけれど、座礁せずにすみましたわ。


復水器の破損や蒸気漏れのため台湾(高雄)到着までに必要な真水500tが不足、

ドラム缶を使い川から真水を毎日30tずつ運ぶ。

一般家庭の浴槽にたまる水が200Lですから30tですと毎日150杯ぶんの水を運ぶことになりますわ。

ホントに!?計算、合ってますわよね!?


艦首部をはじめ、損傷箇所の補強・応急修理を行う。

11月12日
駆潜艇20号と救難艦慶州丸が到着。

慶州丸さんのおかげで機関の修復に期待が持てそうですわよ!

11月16日
掃海艇21号より真水の補給を受ける。

マニラ停泊中の特設掃海艇第21長運丸(長崎合同汽船、195トン)に、

熊野の警護を行うよう命令が下った。

11月17日
掃海艇21号より真水の補給を受け、重油を移載。同艦はマニラに向かう。

第21長運丸、サンタクルーズ到着。

警戒艇は第21長運丸に交代する。

11月19日
敵機来襲!!対空戦闘!!撃てぇぇっ!

F6Fヘルキャット!

何処が地獄のねこちゃんなんですのっ!この性悪女!

19日ごろから艦載機F6Fからの空襲が被害を出すようになる。

敵からは機銃掃射がある程度だったが、戦死者が増加。

熊野の弾薬はこのころから底を突き始める。



11月21日
速力6ノット発揮可能になる。

11月22日
機帆船による補給。機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受け修理と補給が

着々と進む熊野。

11月25日7時00分
空襲警報発令!

F6F十数機が来襲、警戒艇第21長運丸を攻撃して炎上させる。

9時00分
アメリカ軍機約90機が来襲、八十島以下4隻を攻撃する。

船団は全滅し、便乗していた熊野戦傷者全員戦死。

12時10分
長運丸が爆沈。

25日の一連の戦闘で熊野には被害が出なかったが、これまでの対空戦闘で残弾が約3000発となる。

対空機銃1門当たりに80発の弾・・・・これではあと1回の悪あがきしかできませんわ・・・・

14時30分
米空母タイコンデロガの艦載機

(F6Fヘルキャット8、SB2Cヘルダイバー13、TBFアベンジャー9、計30機)の空襲が始まる。

海防艦八十島を沈めた艦載機の一部が熊野にも襲い掛かる。

何が何でもわたくしを日本に帰さないつもりですわね・・・・

仕方ないですわ!!これが最後の戦いよ!

あなたたちを道ずれに、わたくしは、わたくしの大切なものをまもるっ!!




これまで幾度となく轟沈の危機を迎えては、死の淵から這い上がって来た不屈の熊野にも、

いよいよ最後の時がやって来た。




長い航海.jpg
14時40分
サンタクルーズ沖

傷ついた熊野は回避行動もままならないまま、高速で乱舞する敵機を相手に対空戦闘を展開する。

が、瞬く間に艦橋後部に1発。続いて艦橋後部右舷に2発の魚雷が炸裂。

っあぁぁっ!

一門、また一門と弾薬不足により沈黙していく砲門。

一番砲塔左舷横と飛行甲板左舷にも1本ずつ命中。

二番砲塔左舷に爆弾命中。

傾斜が増し、左舷へ転覆する。

沢山の人に助けられてここまで来ましたけれど・・・・ここで終わりのようですわね・・・・。

最上、三隈、鈴谷。

もうすぐわたくしもそちらに参りますわ。

そちらにも平和な海が広がっていると、うれしいですわね・・・・

15時15分
艦長以下400名と共に熊野はその生涯を終えた。









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